MEDIEVAL LIFE

- 古代ローマ - 中世 - 近世 - 近代

 ヨーロッパ史における中世とは、一般に西ローマ帝国の滅亡(476年)から15世紀末までを指す。それ以前には古代ギリシャ・ローマの時代があり、後にルネサンスが来るものとして「間の時」を指すラテン語”medium aevum”がこの時代の名として用いられているが、ルネサンスを中世に含めるか否か等、その時代区分は今も議論されている。イタリア・ルネサンスの史観として、この時代自体をゲルマン民族の支配する「暗黒時代」と呼ぶことがあるが、この時代の初期の頃を「暗黒時代」と呼ぶこともある。
 この中世の頃、7世紀には中国に唐王朝がおこり、西アジアにはイスラムの時代が始まっている。騎馬民族が栄え、モンゴル帝国が中国からペルシア湾まで覇を唱えた。

 Key:キリスト教/封建制/ギルド/都市国家/都市同盟/フランク王国/神聖ローマ帝国/ヴァイキング/北欧帝国/スラヴ人/百年戦争/十字軍/レコンキスタ

それまで
ヘレニズム時代とユダヤ教の成立
キリスト教の成立と発展
ゲルマン民族大移動
中世初期(500年頃-1000年頃)
西ローマ帝国の滅亡
ローマ・カトリック教会の成長
フランク王国の発展とメロヴィング朝
カール大帝
フランク王国の分裂
西ヨーロッパへの外敵
中世盛期(1000年頃-1300年頃)
十字軍遠征
 - 事の発足
 - 第1回十字軍
 - 第2回十字軍
 - 第3回十字軍
 - 第4回十字軍
 - 十字軍による影響等
中世終期(1300年頃-1500年頃)
封建社会と十字軍の爪痕
 - 自治都市
 - 商人
 - 中世の衰退
 - 濡れ衣とユダヤ人
ビザンツ帝国の最期
スラヴ人と他諸民族




それまで

BC1500年頃
- ヘブライ人、パレスティナに移住 - 中国、前漢
BC13世紀
- 出エジプト

BC11世紀後半
- ヘブライ王国成立



- ヘブライ王国南北分裂

BC722年 - 王政/共和制ローマ - イスラエル王国滅亡

BC586年
- ユダ王国滅亡→バビロン捕囚

BC4年頃
- イエス誕生

395年頃 - ローマ帝国東西分裂




- 西ローマ帝国をホノリウスに - 東ローマ帝国(ビザンツ)をアルカディウスに

バシリカ式

中世初期(500年頃-1000年頃)

476年 - 西ローマ帝国帝王、ゲルマン人オドアケルの圧迫を受け退位。西ローマ帝国滅亡 (*注)




- 騎馬民族が中国を攻略(250〜500頃) ビザンツ様式
481年



- クローヴィス1世がフランク王国(メロヴィング朝)を建てる。


493年 - テオドリック東ゴート王国建国






496年



- クローヴィスがカトリックに改宗


533年
- ユスティアヌス大帝、ヴァンダル王国征服 - ヴァンダル王国、ビザンツに征服される。




534年

- ヴァンダル王国滅亡 - ブングルト滅亡



554年 - 東ゴート、ビザンツに征服される。 - ユスティアヌス大帝、東ゴート征服



555年 - 東ゴート滅亡




565年 - ユスティニアヌス帝死去



568年 - ロンバルド建国




589年



- 隋が中国を統一
590年




- グレゴリウス1世、教皇になる
614年以降



- ムハンマド登場

616年




- 大唐帝国が成立
622年



- ムハンマドが信徒とともにメッカからヤスリブ(メディナ)へ移住。イスラム集団の誕生

651年




- ササン朝滅亡。西アジア・アフリカにイスラム勢力拡大

661年




- ウマイヤ朝開始。シーア派が生まれる。

711年




- 西ゴート王国滅亡。イスラム領ウマイヤ朝へ

718年




- イスラム勢力、コンスタンティノープルを攻撃

726年
- ビザンツ皇帝レオン3世、聖像禁止令発布





732年


- トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍を撃退
- ウマイヤ、フランク王国に撃退される。

750年





- アッバース朝開始

751年



- ピピン、カロリング朝開始



755年






- 唐で安禄山の乱が起こる。
756年 - ローマ教皇、領ゲット


- ピピン、教皇領寄進



771年



- カール、フランク国王となる。



800年



- カールの戴冠



829年




- エグバード、イングランド統一


843年
- ヴェルダン条約により、カロリング朝の王の死後、遺子三人がフランク王国を3分割(東/西/中フランク王国)して相続する事が決まる。






870年
- メルセン条約イタリア

- メルセン条約西フランク)プロヴァンスを組み込む - メルセン条約東フランク)ロタリンギアを組み込む



907年







- 唐、滅びる。
911年



- ノルマンのロロ、キリスト教に改宗し、西フランク王国にノルマンディー地方を与えられる。




918年







- 高麗建国
936年







- 高麗、朝鮮半島統一
960年







- チョーキョウインが宋、建国
962年




- オットーの戴冠
- 神聖ローマ帝国成立




1000年









中世盛期(1000年頃-1300年頃)

1016年





- クヌート(デーン)、イングランド征服


1031年






- 後ウマイヤ朝滅亡










- この辺りでカスティリア/アラゴン/ポルトガル3王国建国

1035年





- クヌート死去
- アラゴン王国独立

1038年





- クヌート死去
- カスティリア王国成立

1044年








- ビルマが統一され、ビルマ人最初の王朝であるパガン朝が開かれる。
1054年









- ローマ教会とコンスタンティノープル教会の分裂
1066年





- ノルマンディー公ウィリアムがイングランド征服(ノルマン朝)


ロマネスク式
1095年 - クレルモン宗教会議にて教皇、聖地回復を呼びかける。









1096年 - 第1回十字軍結成。エルサレムへ









1099年 - 第1回十字軍イェルサレム王国を建てる









1130年
- 両シチリア王国成立








1143年








- ポルトガル王国独立

1147年 - 第2回十字軍結成。










1187年






- サラディン、エルサレム奪還・占領



1189年 - 第3回十字軍結成。










1191年 - 第3回十字軍、アッコンを奪還。










1202年 - 第4回十字軍結成。










ゴシック式
1204年

- 十字軍によってコンスタンティノポリス陥落。ラテン帝国建国








1206年









- モンゴル帝国、はじまる。
1212年



- フランスにおける民間十字軍少年十字軍、奴隷として売り飛ばされたりする。






1219年









- モンゴル、大遠征はじめる。
1227年









- モンゴル、西夏滅ぼす。
1241年









- モンゴル、第二次大遠征はじめる。
1270年 - 最後の十字軍、終わる










1271年









- フビライハンが元王朝を開く。

中世終期(1300年頃-1500年頃)

1302年



- フランス王フィリップ4世、三部会を招集。フランスにおける身分制議会の始まりとされている。






1303年 - アナーニ事件によって、教皇憤死


- アナーニ事件*






1309年 - フランス王フィリップ4世によって教皇庁がアヴィニョンに強行。以後教皇7代にわたってフランス支配下におかれる。










1368年









- 朱ゲンショウが明を建国
1392年









- 挑戦にて高麗王朝滅亡。李氏王朝が出来る。
1418年











1453年

- ビザンツ帝国、滅ぼされる
- ボルドー陥落。百年戦争の終息
- 百年戦争の終息




1456年




- ドイツのグーテンベルク、聖書を印刷





1479年







- カスティリア王国・アラゴン王国の統合により、スペイン(イスパニア)王国成立


1480年


- モスクワ大公国自立







1488年








- ポルトガルのバルトロメオ・ディアスがアフリカ南端の「嵐の岬」(後の喜望峰)発見

1492年







- スペイン王国、イスラム最後の拠点であるグラナダを陥落させ、国土統一


1497年








- ヴァスコダ・ガマがインドを目指し出発

1498年








- ヴァスコダ・ガマがインド西岸カリカットへ到着

1499年








- ヴァスコダ・ガマ帰国

1510年








- ポルトガル船団、インドのゴアを占領

1511年








- ポルトガル船団、マレー半島マラッカを占領

1517年




- マルティン・ルターがレオ10世の発売させていた免罪符を批判する意見書「95ヶ条の論題」を貼り出す。





1518年




- ルター、「免償についての説教」を発表





1535年



- スイスに亡命したカルヴァンが「キリスト教綱要」を発表






1562年



- フランス、ユグノー戦争といわれる内乱状態にはいる








ゲルマン民族大移動

 バルト海沿岸を原住地としていたゲルマン人は、アルプス以北のヨーロッパにBC6世紀頃からひろく住みついていたケルト人を西に圧迫しながら勢力を拡大していた。その勢力は紀元前後頃にはライン川から黒海沿岸に至るまでの地域に拡大しており、ローマ帝国とは境を接するようになっていた。
 しかし、4世紀後半になるとアジア系のフン人が押し寄せて来、ゲルマン人の一派である東ゴート人の大半を征服、更には西ゴート人を圧迫した。そこで西ゴート人は375年に南下をはじめる。これをきっかけに、他のゲルマン諸部族も大規模な移動を開始した為、約200年に及ぶゲルマン民族大移動がはじまったのだ。
 大移動の根本的原因は人口増大に伴う耕地不足ともみられる。
 西ゴート人はローマ略奪後、イベリア半島に建国。ヴァンダル人は北アフリカ、ブルグンド人は画リア(現在のフランス)東南部、フランク人はガリア北部へ建国。アングロ・サクソン人は 大ブリテン島に渡る。
 因みに、西ローマ帝国の傭兵であったオドアケルがアウグストゥス帝を退位させたのは西ローマ帝国の政治に介入したゲルマンの力による。
 一方フン人支配から脱出した東ゴート人はイタリア半島に移動。オドアケルの王国を倒しここに東ゴート王国を建国。
 ゲルマン諸国家の大半は短命であったが、フランク王国はその後を着実に領土を広げ、最有力国として残った。
 ところで、ケルト人は今日のアイルランド、スコットランド、ウェールズ及びブルターニュ半島に追いやられ、その後独自の文化を保ち続けた。


西ローマ帝国滅亡 (年表)

 "Pax Romana"「平和のローマ」も五賢帝最後のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の治世末期頃からボロが出てきた。更には元老院との争い、北のゲルマン東のササン朝(ペルシア)等、異民族の侵入もあってローマは非常に不安定な状態となる。
 守備範囲を狭める為、最終的に東西に分かれたローマであったが、西ローマ帝国は次の世紀でゲルマン人侵入によって混乱を極め、遂に476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅亡させられる。
 一方、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は都市経済が比較的健在で、その後1453年まで続いた。ビザンツ帝国では、皇帝がギリシア正教会を服従させ、中央集権的一元支配を維持していた。


ローマ・カトリック教会の成長

 ローマ帝政末期には五本山と呼ばれる、ローマ/コンスタンティノープル/アンティオキシア/イェルサレム/アレクサンドリア、の5教会が重要であった。中でもローマ教会コンスタンティノープル教会が有力であった。
 ローマ教会は西ローマ帝国滅亡後、ビザンツ皇帝が支配するコンスタンティノープル教会から次第に分離し、独自の活動を展開するようになった教会である。
 6世紀末の教皇グレゴリウス1世以来は、ゲルマン人達への修道院運動などの布教活動に熱心になり、西方教会は勢力を拡大。使徒殉教の地となったローマ教会の司教は教皇として権威を高めるようになる。
 キリスト教徒は以前から聖像を礼拝していたのだが、この聖像を巡り、東西教会の断絶は深まった。事の発端は726年にビザンツ皇帝レオン3世の発布した聖像禁止令である。これは、偶像崇拝が本来のキリスト教教理に反しているという為と、また同じく偶像を禁じているのだがそれをもっとストイックに行っているイスラム教に対抗する必要にせまられた為である。布教の為聖像を必要としていたローマ教会はこれに反発。
 この両教会の更なる対立の強まりによって、ローマ教会にはビザンツ皇帝に対抗出来る政治勢力をつける必要性を持ったのだ。そこでイスラム軍を破り、西方キリスト教世界を保護したフランク王国に接近し、カール・マルテルの息子であるピピンのフランク王位継承を認める。
 だが、ローマ教会がフランク王国と密接な関係になるのはそのピピンの子、カール大帝の時代である。カールの戴冠の後、ローマ教会はビザンツ皇帝への従属から独立。
 11世紀のキリスト教世界は教皇を首長とするローマ・カトリック教会とビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会に完全に分裂するようになる。


フランク王国の発展とメロヴィング朝 (年表)

 481年、全フランク人はメロヴィング家のクローヴィスにより統一され、ガリア中部を支配下におく、東ゴート王国に並ぶ強国、フランク王国となった。
 クローヴィスが正統派のアタナシウス派に改宗した当時は他のゲルマン人の多くが異端であるアリウス派キリスト教を信仰していた。クローヴィスの改宗は、後にフランク王国がローマ人貴族を支配層にとりこみ、西ヨーロッパの中心勢力になる要因となる。
 6世紀半ばにはブルグンド王国などを滅ぼし、全ガリアを統一。8世紀になるとメロヴィング朝の権力は衰え、王家の行政と財政の長官である宮宰が実権を握る。
 この頃、イスラーム勢力がアラビア半島から急速にひろがり、地中海世界にも侵入をはじめていた。ウマイヤ朝イスラム教徒は北アフリカを西進、711年には西ゴート王国を滅ぼし、遂にはガリアへと侵攻しようとしていたのだ。メロヴィング朝の宮宰であったカール・マルテルは732年トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝イスラム軍を撃退。その子ピピン751年にメロヴィング朝廃止、カロリング朝をスタートさせる。
 この頃までゲルマン諸国家は大体が旧西ローマ帝国の統治制度を受け継いでいたのだが、イスラーム勢力の侵入により自体は変化していった。


カール大帝 (年表)

 ピピンの子、カール(シャルルマーニュ)大帝の時代は、ローマ教会とフランク王国の関係が最も強かった頃の事である。
 カール大帝はランゴバルド王国を征服、北東のザクセン人を服従させ、大陸における大多数のゲルマン諸部族を統合し、ローマ・カトリックに改宗させた。また、東ではモンゴル系のアヴァール人を、南ではイスラム教徒を撃退。西ヨーロッパの主要部分をフランク王国によって統一。広大な領土の支配において全国を州にわけ、地方の有力豪族達を各州の長官である伯として任命。また巡察使を派遣した。
 かくしてフランク王国はビザンツ帝国と並ぶ強大国へと成長したのである。
 カール大帝の活躍振りを見て、ローマ教会教皇レオ3世はすかさず800年、彼にローマ帝の帝冠を与え、「西ローマ帝国」の復活を宣言。これがカールの戴冠である。


フランク王国の分裂 (年表)

 カールの帝国の実態はカールと伯との個人的な結びつきにより成り立ったものに過ぎなかった。彼の死後の内紛後843年ヴェルダン条約870年メルセン条約によってフランク王国は東西フランク・イタリアの三つに分裂した。
 後のドイツ・東フランクは10世紀初頭、後のフランス・西フランクでは10世紀末、更にはイタリアでも、ともにカロリング朝の血筋は断絶。
 その後東フランクでは各部族を支配する諸侯の選挙で王を選ぶようになる。その内のザクセン家のオットー1世は、マジャール人やスラヴ人の侵入を退ける、北イタリアを制圧する、という功績を収め962年には教皇からローマ皇帝の位を与えられた。こうして東フランクは神聖ローマ帝国へとなったのである。しかし、皇帝はイタリア支配に積極的にのりだしたイタリア政策にのめり込み過ぎた為、本国を疎かにし、国内の不統一をもたらした、という事がその分裂・衰退を導く結果となった。
 一方西フランクでのその後は、パリ伯であったユーグ・カペーが王位に就き、カペー朝を開いたというものであったが、その王権は極めて弱く、多数の高い権力をもった大諸侯が分立していた。因みに、カペー以後、西フランク王国はフランス王国と呼ばれる様になる。
 また、イタリアでのその後は神聖ローマ帝国の介入、イスラム勢力の侵入で乱れる。ローマを中心とした教皇領のように、北イタリアではジェノヴァやヴェネツィアなどの都市が独立。


西ヨーロッパへの外敵

 西ヨーロッパには8〜10世紀の間絶えず異民族が侵入してきていた。
 東方からは、スラヴ人がフランク王国を脅かす。イスラーム教徒はその後にも南イタリアや南フランスにひたすら侵攻。またアヴァール人やマジャール人も頻繁に侵攻をしていた。
 しかし、こういった外敵は東方からの異民族ばかりでなく、元々ゲルマン人一派であるヴァイキングもなかなか活発に侵攻していたのだ。
 このヴァイキングとはスカンジナビア半島やユトランド半島に住んでいた北ゲルマン人、ノルマン人の一部である。ヴァイキングとしておそれられていた彼等は、細長く底の浅い特徴を持つヴァイキング船に乗り、商業や海賊・略奪を目的としてヨーロッパ各地に遠征を行う様になった人々である。
 10世紀初頭、ロロ(後のロベール1世)のひきいる一派は北フランスに上陸し911年ノルマンディー公国を建国。ここから更に分かれた一派は12世紀前半に南イタリア、シチリアに親友し、両シチリア王国を建国する。大ブリテン島のアングロ・サクソン王国もまたヴァイキングの侵入に悩まされており、9世紀には一時アルフレッド大王がこれを撃退するが、1016年には遂に他の一派であるデーン人、クヌートに征服される。ただしクヌートは35年に死去。死後、アングロ・サクソン系の復活・後継者争いなどで彼の、イングランド、デンマーク、ノルウェーの三国でつくった国家連合、北海帝国は僅か7年で崩壊。
 アングロ・サクソン系の王家はノルマンディの支援を受け、エドワード懺悔王が即位する事によって後にまた復活するのだが、デーン人とノルマンディ人の影響、更には適当な後継者の不在や後継者のあまりの若さにより非常に不安定であった。1066年にノルマンディー公ウィリアムが王位を主張して攻め込み、ウィリアム一世(William the Conqueror)としてノルマン朝を建てる。これが、ノルマン・コンクエストである。
 また、リューリクを首領としていたノルマンの一派は、ドニエプル水系のスラブ人地域に進出し、スラブ人達にルーシ族と呼ばれていた。彼等は9世紀にノヴゴロド国、次いでキエフ公国を建設。これがロシアのはじまりである。
 またノルマン人には他にもアイスランド、グリーンランドに移住した者、更には北アメリカに到達した者も居た。一方原住地ではデンマーク、スウェーデン、ノルウェーと諸王国が建国される。
 彼等ノルマン人の移動が終わったのは、彼等がキリスト教化されてからの事である。随分と長い期間を、西ヨーロッパは不安と混乱に嘖まれた訳だが、かくして北欧は西ヨーロッパの一部としての足場を獲得したのであった。


十字軍遠征

基本的にローマ教皇の呼びかけにより結成された聖地を目指す軍を指す。
・事の発足
 11世紀、東地中海沿岸に進出し、聖地エルサレムを支配下においたトルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝に脅かされたビザンツ皇帝が、1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を訴えたのがはじまり。ただしこの時ビザンツ皇帝アレクシオスが要求したのは単に東ローマ帝国への傭兵であって、十字軍のような軍隊そのものではなかった。
 そこでウルバヌス2世は同年11月に行われたクレルモン宗教会議にて、集められたフランスの騎士達に向かい、イスラム教徒に奪われた聖地エルサレム回復の聖戦をおこす、と呼びかけた。こうして翌年1096年、諸侯や騎士からなる第1回十字軍が出発。1099年にはエルサレムを占領し、イェルサレム王国をたてる。


・第1回十字軍
 1096年 - 1099年
 ローマ教皇ウルバヌス2世が、参加者には免償を与えるとしてイスラム教徒に対する軍事行動を呼びかけ結成された、諸侯や騎士からなる軍。
 イスラム教徒支配下の都市を攻略、虐殺、陵辱、略奪しつつエルサレムを目指す。イスラムの諸領主はただただ敗走するか戦わずして十字軍を受け入れた。軍勢がエルサレムの征服に成功したのは1099年。エルサレム王国をたてた。多くのイスラム市民に対し、虐殺、陵辱、財産の略奪を行う。また、この十字軍の業績の結果、シリアからパレスティナにかけての中東地域にエルサレム王国の他にもいくつかの十字軍国家がたてられた。

・第2回十字軍
 1147年 - 1149年
 暫くは十字軍国家をはじめとするキリスト教徒とイスラム教徒が共存する状態が続いた後、イスラムは勢力をもりかえす。このイスラム勢力がエデッサ伯国を占領した事から、教皇エウゲニウス3世の呼びかけにより、結成された軍。
 フランス王ルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世を指導者に多くの従軍者が集まったのだが統制がとれずに、大きな成果を挙げる事なく敗北・失敗。

・第3回十字軍
 1189年 - 1192年
 1187年、「イスラムの英雄」サラディン(サラーフッディーン)により、約90年振りのイスラムのエルサレム占領・奪還が行われた。これに対し、教皇グレゴリウス8世は再び十字軍の結成を呼びかける。イングランド獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加するが、フリードリヒ1世の溺死、フィリップ2世の帰国、リチャード1世のサラディンとの休戦協定などにより、エルサレムの奪還は失敗に終わる。
 ただ、何も得られなかった訳ではなく残ったフィリップ2世とリチャード1世引き連れる第3回十字軍は、1191年にアッコンを奪還。これによってエルサレム巡礼の自由が保障されたという。

・第4回十字軍
 1202年 - 1204年
 今回は聖地エルサレムでなく、イスラムの本拠地であったエジプト攻略を目指すという、教皇インノケンティウス3世の呼びかけによって結成。だが渡航費に事欠き、十字軍輸送を請け負ったヴェネツィア商人に要求をせまられ、輸送料金不足分支払いの為に動く事となる。
 先ず軍はハンガリーのザラを攻略し、同じカトリック国を攻撃した事で教皇から破門を受ける。
 次いで商業上のライバルであったコンスタンティノープルを占領。市民を虐殺したり、掠奪する。フランドル伯ボードゥアンを皇帝として1204年にはラテン帝国建国。
 止むを得ず教皇は追認。また、エルサレムを目指し遠征する様に要請したのだが実施はされなかった。
 この事によってビザンツ帝国は一旦断絶。その皇族達は旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立。
 以後も、フリードリヒ2世とイスラムの話し合いによって一時的に聖地回復した第5回十字軍、ルイ9世が導き海路エジプトを目指し敗退した第6回十字軍と1270年の第7(8)回で王ともども疫病にやられるまで十字軍は興されたのだが、エルサレム回復の目的はついに達成されず終わった。エルサレムはその後も20世紀までイスラムの支配下に置かれる事となる。
 この期間にはまた、聖地への巡礼保護の為、1190年アッコンで設立されたドイツ騎士団など、聖地守護のための修道騎士による組織である宗教騎士団が各地で活躍した。
 他の宗教騎士団については、第1回十字軍の時結成され1887年までエルサレムで救護などをし、後に本拠を移してマルタ騎士団とも呼ばれるようになったヨハネ騎士団、1119年に設立され寄進を受け富裕化/拡大しその富を狙ったフィリップ4世の弾圧を受けて1312年解散させられたテンプル騎士団がいた。
 1212年、ドイツ/フランスで神のお告げをきいたという少年らが主導し、途中帰郷に留まらず船の難破や奴隷として売られるなどの目に遭い失敗におった少年十字軍の様に熱狂的動悸から興り、悲劇的結末に終わる運動もあった。
 相次ぐ遠征の失敗によって教皇の権威は揺らぎ始め、遠征を指揮した国王の権威が高まる様になる。また、十字軍輸送によりイタリアの諸都市は繁栄。東方との交易が再び盛んとなる。これによって東方から先進文明圏であるビザンツ、イスラムからの文物が西ヨーロッパに入って来るようになった。


封建社会と十字軍の爪痕

 十字軍の業績は中世封建社会の崩れに大きな影響を残したと言えるだろう。
 封建制の安定と農業生産の増大により、余分な生産物が出現する様になる。そこでそれらを交換し合う不定期市が定期市、そして固定店舗へと成長していき、貨幣の貯蓄などを避ける傾向にあるムスリム商人や、ノルマン人の商業活動によってそれまで衰えていた貨幣経済は再活性化する。加えて十字軍の活動の影響による交通の発達で行われるようになった、北イタリアのイスラム商業圏との貿易や北海・バルト海貿易などの遠隔地商業によって発達する都市は現れる。
 商業ルネサンス(商業の復活)とは11世紀から12世紀にかけておこったこの様な経済や都市に於ける発展を指す。(参考:ルネサンス

・自治都市
 遠隔地商業、及び遠隔地貿易は先ず地中海商業圏で復活している。
 北イタリア諸都市と地中海東岸地方(レヴァント地方)で行われた、東方貿易(レヴァント貿易)はまさに十字軍以降に活発になった貿易である。北イタリア都市はこの東方貿易で、主に南アジアをはじめとする東方から香辛料(胡椒など)/絹織物/宝石などの贅沢品を輸入していた。(参考:大航海時代
 北イタリアでは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の南下に対してロンバルディア同盟 Lombardiaが都市同盟(後述)として結ばれている。ロンバルディア同盟は、北イタリアロンバルディア平野におけるミラノを中心として結ばれ、1167年には皇帝軍を破り自治権を確認させている。また、その後神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とも対立した。

地中海商業圏

     ヴェネツィア Venezia:アドリア海に面する北イタリアの港市。ビザンツ帝国に属していたが第4回十字軍とともにその首都コンスタンティノープルを攻略。以来13世紀初頭頃には東方貿易により勢力をより拡大させる。また同時期マルコ・ポーロが中央アジアを経て元へ向かっている

     ジェノヴァ Genova:北イタリア地中海海岸の港市。東方貿易を盛んに行い、ヴェネツィアやピサと競った

     ピサ Pisa:中部イタリアの西海岸の港市。東方貿易で繁栄

     ミラノ Milano:北イタリアロンバルディア地方の内陸都市。その名称はケルトの「平野の中心」を意味する”Medelhan”からきているといわれる。羊毛を扱うアルプス以北の東方貿易での間をつとめる中継貿易などでフィレンツェとともに毛織物産業/金融業で繁栄

     フィレンツェ Firenze:北イタリアトスカナ平野の内陸都市。ミラノと並んで毛織物生産と貿易、金融業で繁栄した。新興市民勢力によって共和制を実現するが、15世紀には富豪メディチ家を生み出しメディチ家の独裁下に置かれるようになる(参考:ルネサンス/イタリア・ルネサンス/ルネサンスの育つ環境)

     マルセイユ Marseille:南フランスに位置する港市。もとはギリシアの植民市マッシリアで、その後ローマ化していった、紀元前もなかなか栄えた都市であった。港市であるだけあって、東方貿易でもそこそこ繁栄したそうだ



 北ヨーロッパ商業圏は北海・バルト海貿易を中心に栄えた。
 北海・バルト海貿易は、北海とバルト海を利用した北ヨーロッパ諸国/都市間の貿易で、主に海産物/木材/穀物/毛織物(羊毛)などの生活必需品の取引で賑わっていた。
 現在の北ドイツを中心に、共通の利害の為結ばれたハンザ同盟 Deutsche Hanseは、もともと「hanse:旅商人の仲間」を意味する名を持つ割合と緩やかな同盟。リューベックを盟主とし、1358年には明確に、皇帝/国王/諸候の圧迫に対抗する、都市同盟(後述)の形をとる。西はロンドン東はノヴゴロドと、加盟市は100を越えた。共通の貨幣/度量衡/取引法を決め、共同で陸海軍などの武力を持ち、北海/バルト海一帯を制圧する。15世紀に訪れた最盛期の加盟市は200を越え、その勢力もヨーロッパ内陸に留まらず、地中海にまで及んでいた。
 ちなみに、領邦君主の圧迫や、大航海時代によるヨーロッパ商圏の中心軸の移動などによって16世紀以降次第に衰えていったハンザ同盟はウェストファリア条約で事実上解散したが、冷戦終結後に第二次ハンザ同盟と謳う復活が試みられ1992年にはバルト海沿岸諸国評議会として結実している。
 また、航空会社ルフトハンザドイツ航空の名称は、「空の旅商人の仲間」を指しており、ロゴのモチーフはツルらしい。

北欧商業圏

     ハンブルク Hamburg:北ドイツに位置するエルベ河口の港市。神聖ローマ皇帝から度々、帝国都市(後記参照)を与えられ自治権を獲得、維持。ハンザ同盟/北海交易の中心となり、海産物/木材/穀物などの生活必需品を取引した

     リューベック Lübeck:北ドイツに位置するバルト海沿岸の港市。1143年にホルシュタイン伯により建設され、火事による荒廃の後ザクセン伯によって再建されて以降、ハンザ同盟/北海交易の中心となり、後にはハンザ同盟の盟主となっている。海産物/木材/穀物などの生活必需品を取引した

     ブレーメン Bremen:北ドイツに位置するヴェーゼル下流の港市。ハンザ同盟の中心となり、海産物/木材/穀物などの生活必需品を取引した

     フランドル Flandre:ネーデルラント西南部、現在のベルギーの地域を指す。日本語では英語風に”フランダース”としても有名である。中世にはブルージュ/ガン/イーベルが繁栄の中心であったが、それ以降の中心はアントワープ(アントウェルペン)/ブリュッセルへと移動する
      - ガン(ヘント) Gent:フランドルの都市。毛織物産業で繁栄
      - ブリュージュ Bruges:フランドル北海沿岸の都市。ハンザ同盟に参加し、毛織物産業で繁栄した

     ロンドン London:イングランドテムズ川下流の港市。ローマ時代、ローマ人による支配の頃からブリテン島の首都とされ、経済/(政治)の中心としてハンザ同盟に参加し、イングランドにおける北海貿易の中心となってフランドルに毛織物の原材料となる羊毛を輸出、繁栄した。12世紀末にイングランド国王から自治権を獲得している

     ノヴゴロド Novgorod:13世紀よりモスクワが登場するまでのロシアの中心都市として機能した、黒海とバルト海を結ぶ交易ルート上に位置する、ノヴゴロド国の首都。ハンザ同盟に参加した

     キエフ Kiev:ロシアの、ドニエプル川中地域の黒海とバルト海を結ぶ交易ルート上に位置する都市で、キエフ公国の首都



 他に、これら二つの大商業圏に挟まれた内陸地域における通商路に発達した都市の活躍ぶりも見逃せない。

通商路

     シャンパーニュ地方 Champagne:フランスに位置するパリ東南の州。地中海と北海の商業圏の中間に位置し、年間6回、都市毎順に開かれた定期市で南北商人の接触交易が行われ、繁栄し、有名になった(→Les grandes Foires de Champagne)。14世紀以降、衰退

     リヨン Lyon:フランス南東部ローヌ河谷の中心に位置する都市。中継貿易と絹織物生産で繁栄

     ニュルンベルク Nürnberg:イタリアとドイツを結ぶ南ドイツに位置する都市。アウクスブルクとともに2大貿易都市となる。商業/手工業が盛んで、その中心として繁栄した

     アウクスブルク Augsburg:イタリアとドイツを結ぶ南ドイツに位置する都市。ローマ皇帝アウグストゥスによって設けられた植民市が起源。周辺で採掘される銀や銅により、この地域の交易/鉱山業の中心として発達した。フッガー家の拠点となったことで有名である



 ローマ帝政末期以来の司教の管轄する教会のおかれた司教座都市などが核となって出来ており、封建領主の保護と支配をうけていた中世都市であったが、商工業の発達とともに解放と自治を求める様になる。
 そこで、各都市は、それらの有力者を中心としたコミューン運動を行い、諸候の力をおさえようとしていた国王/皇帝などの封建的支配者から、都市に対するその権力(主に、市場権/貨幣鋳造権/居住権/交易権/自治権)の委譲/放棄を認める文書である特許状(charta)を得、領主からの法的自立を意味する様々な自治権の獲得を経て自治都市となっていった。
 自治権は各地多様な形で存在した。
 北イタリア諸都市では、領主である司教権力を倒して自治権を獲得。こうしてイタリア北/中部ではコムーネ communeと呼ばれる自治都市/都市共和国として成立し、市民自身で市政を運営、また周辺の農村と併合して一種の共和都市国家として完全独立をした。
 ドイツ諸都市では、有力都市が神聖ローマ皇帝から自治権を与えられ成立した、帝国都市(自由都市) Freistadtが現れる。帝国都市は、皇帝に直属し諸候と並ぶ地位にたった。そんな自由都市が発達していく中、”法的支配下におかれていた農奴も、都市や修道院へ逃れて1年と1日を過ごせば、領主から解放された身分を得られる”という事を示す「都市の空気は自由にする Stadtuft macht frei」という諺が生まれた。
 上記の地域で結ばれた、北イタリアのロンバルディア同盟、北ドイツ諸都市のハンザ同盟の事を都市同盟と呼ぶ。都市同盟は、自立していても人口や規模の小さい都市が共通の利害、主に皇帝/国王/諸候の圧迫に対抗する為に結んだ同盟をいい、軍事同盟の強い性格を持ち、ハンザ同盟の様に北ヨーロッパ商業圏を支配する大きな政治勢力ともなることがあった。
 イギリスやフランスに位置する諸都市は、国王との結びつきが強かった為、王権の伸張とともに国の行政の中心地として成長していく事となる。


・商人
 西ヨーロッパの自治都市は、領主などからの介入を避ける為、周囲を城壁などで囲むようになる。それに伴いそれらの都市は自治にあたるにおいて、独自の行政組織を持つようになった。
 その、自治運営の基礎となった組織が、商人や手工業の同業組合であるギルド 英:Guild/独:Zunftであった。ギルドは排他的な組織で、自由競争を禁じ、製造方法/品質/価格などを規約によって細かく取り決め統制し、加盟者以外の同業への参入を拒んで市場を独占した。
 はじめ市政を独占していたのは、都市の成立/発展に大きく寄与した遠隔地商人をはじめとする大商人を中心とした商人ギルドであったが、商人ギルドの市政独占に反発した手工業者達によって職業別の同職ギルド(ツンフト)が結成される。同職ギルドが商人ギルドに対し市政参加の要求を行い起こした闘争をツンフト闘争 Zunftkämpreと呼ぶ。この闘いは成功し、手工業者達の市政参加は実現した。
 ギルド的規約は、当時貧弱であった手工業者の経済的地位を安定させたが、経済/技術の自由な発展を妨げ、更にはその閉鎖的/特権的な特徴が避難される様になる。そして後の新技術の開発はギルド規制の弱い農村部が基盤となる様になった。
 遅くまで封建制の残っていたドイツではギルド的様式が生き残っている。

Guild/Zunft

     商人ギルド merchant guild:11世紀頃から各都市に成立。市場の独占を行った。13世紀以降の自治都市における市政運営の主体は、主に商人ギルドの親方であった

     同職ギルド(ツンフト) craft guild:商人ギルドに対抗して成立した、職業別手工業者の組合。厳格な身分序列である徒弟制度などの厳格な規則を持つ

     親方 master:独立した手工業の経営者。同職ギルドに参加する正規組合員となれたのは、親方資格をもつ者に限られており、市政に参加したのは親方であった。しかし親方資格の認定は非常に厳しかった。職人や徒弟に対し、技術面/人格面ともに絶対的な権威を持っており、彼らを指導/管理し労働させる。新技術の採用を嫌う傾向があった為、ギルドにおける技術の進歩を妨げる一因となった

     職人 journeyman:親方の仕事場で働く有給の技術者を指す。親方資格の認定が難しくなるにつれ、14、15世紀頃には親方との対立を深める様になる。時には反乱を起こすこともあった

     徒弟 apprentice:職人の前形。住み込みで無給の見習いであり、普通2〜7年続ける。



 また、強力な商人は、上層市民の中にも現れた。
 アウクスブルクを本拠地とする金融業者、フッガー家 Fuggerは、イタリアとの香料と羊毛の取引で成功し、南ドイツで銀山を独占経営した富で、皇帝や教皇に強い影響力を持っており、融資によってそれら教皇などの地位を揺るがした。
 フィレンツェの大金融業者/大商人、メディチ家 Mediciは、15世紀前半に市政を掌握し、パトロンなどとしてルネサンスに多大な影響を与えている。また、一族から教皇や王妃を出したりもしている。(参照:ルネサンスの育つ環境)


・中世の衰退
 貨幣経済の浸透は、荘園制(Manorialism/Seigneurialism)に基づいた、賦役や農民と領主が労働そのもの、あるいは労働による収穫物の一部などの貢納(生産物地代)と保有地を取引するという、自給自足的な経済体制を徐々に破壊していく。
 領主は貨幣を手に入れようと、労働による賦役をやめ、分割した直営地を農民に貸し与えてそこで出来た生産物や貨幣で地代を収めさせる様になった。この貨幣地代の普及によって賦役のない地代荘園は広まっていく。そして農民は、生産物を市場で売って出来た貨幣のうち、地代におさめたものの残りを蓄え経済的力を身につけていく様になる。
 そんな中で14世紀の気候の寒冷化により凶作とそれによる飢饉、加えて盛んになった交易の影響か、イタリア商人等の感染から広まって1346〜1350年頃全西ヨーロッパで流行した黒死病(ペスト) Black Death/Black Plague、また相次ぐ戦乱などで農業人口は激減する。特に黒死病によってイギリスとフランスでは、人口の約1/3が病死したと言われている。この農業人口の激減によって領主は、荘園での労働力確保の為農民への待遇を向上させる必要性に迫られた。これが直接農奴解放への道を切り開いていっている。
 ペストの流行は、魔女裁判で大量の猫達が殺されたことにも原因があるという説がある。
 こうした流れがあって、イギリス/フランス/西南ドイツなどでは、多くの農民達が、移転と職業選択の自由がなく領主に対して複数の義務を負っているという封権的束縛の状態にあった、農奴身分 villein/serf/Leibeigeneの束縛から解放され、自営農民へと成長していった。中でも貨幣地代の特に普及したイギリスでは、この現象が強くあらわれ、農奴達は保有地を耕し僅かな地代を支払う、身分的に殆ど自由な独立自営農民(ヨーマン) yeomanとなった。

 しかし、やがて経済的に窮乏していった領主階級は自立化した農民への支配/搾取を再び強化し、封建支配の形を活気づけようと試みる。これを封建反動 feudal reactionという。
 この封建反動に抵抗した農民達は各地で大規模な農民一揆を起こすようになる。
 1358年に北フランスでおこされた、ジャックリーの乱 Jacquerieでは、フランス王位継承権を主張したイギリス王との対立によって開戦した百年戦争初期の敗戦と重い税についての農民の領主への不満が直接の原因であった。叛乱の名にある、”ジャック Jacques”は当時の農民の蔑称に由来するという説が有力である。ピカルディ/ノルマンディ/シャンパーニュなどで広範囲で発生した後、ギヨーム・カルル Gulliaume Carle/Caillet/Calletが指導者となり、全体を統率するようになった。国王や諸候軍に徹底的な鎮圧を受け、ナヴァル王シャルルによるカルル処刑の後の叛乱は、急速に鎮静化されていった。
 1381年のイギリスで起きたワット・タイラーの乱 Peasants' Revolt/Great Rizingは、農夫で瓦職人でもあったとされるワット・タイラー Wat Tylerや、農民出身の下級聖職者であったジョン・ボール John Ball等によって指導された。
 これも百年戦争を背景にした叛乱で、大幅な赤字を抱えたイギリス国家財政が行った農民に対する課税強化が大きな原因とされる。また、黒死病による農業労働力の不足に悩む領主が農奴制を強化した事もこの一揆の原因であろう。
 ジョン・ボールはこの叛乱の思想的指導者で、彼が熱狂していたイギリスのオクスフォード大神学教授であり聖職者であるジョン・ウィクリフ John Wycliffeの説を説いた。ジョン・ウィクリフは宗教改革の先駆者ともとれる人物で、教皇や教会制度を批判し、実際100年後の宗教改革に大きな影響を与えている。また、エイブラハム・リンカーンの引用した有名な言葉は、ウィクリフが完全英語翻訳をした聖書の序文に書き込んだ文章から来ている:”The Bible is for the government of the people, by the people, and for the people(この聖書は、人民の為の、人民による、人民の政治の為に在るのです)”
 そしてジョン・ボールは、「アダムが耕しイヴが紡いだとき、誰が貴族(ジェントリ)であったか」"When Adam delved and Eve span, Who was then the gentleman?"と、自然において生まれてきた人間には、もともと奴隷もそれを扱う上の者もなかった筈である、と封建社会の身分制度を厳しく批判した。
 ジェントリ Gentryとは、イギリスの支配階級を構成した層のひとつで、男爵の下に位置する豊かな平民の地主層である。貴族には含まれないが、あまり差異はない。農村の実力者層であったが、王権と対立した大領主とは違い、治安判事などの官職を無給で務めたり、慈善事業を行うなど安価な行政機構の形成を支えて王権の伸張を支持した。
 さて、この叛乱はケントとエセックスの人々がロンドンではじめたものであったが、ロンドン市民も合流。国王リチャード2世に農奴制廃止を約束させるものの、実はこの約束は嘘で、騙されたタイラーは殺されてしまう。次いでジョン・ボールなど他の指導者達も相次いで絞首刑にかけられ、叛乱は鎮圧された。
 この叛乱の後、農奴解放が進んで独立自営農民が急増している。

 こういった一揆が鎮圧されても尚、領主層の窮乏は深刻になるばかりで、中小領主である騎士のなかには国王や大諸候によって領地を没収されてしまう者も多かった。
 更には中世末期における戦術の変化も一騎打ち戦の花形であった騎士を没落させていく。この戦術の変化とは、大砲/小銃などの出現とそれら火器が弓矢/刀槍をも凌ぐ主兵器となったこと、歩兵の活躍及び傭兵の使用の普及などの変化を指す。
 一方、市民達は商業圏の拡大につれ、市場を統一する中央政権的政治権力の出現を望むようになった。そこで国王は、権力集中をはかろうと、その望みに協力して諸候をおさえるようになった。
 こういった事で、経済的にも軍事的にも力も自立性も失った中小領主や騎士らは、宮廷に仕える廷臣 courtとなるか、農民から地代を取り立てるだけの地方地主であるジェントリとなった。

 こうして封建制の政治体制は崩壊されていき、国々は近代的中央集権国家へと変貌していくようになったのだ。


・濡れ衣とユダヤ人
 飢餓、疫病、戦乱による大量の死者は中世後期をの社会不安を増加させた。
 そんな中、もともと中世を通じてキリスト教徒から差別的扱いをうけていたユダヤ人は、ヨーロッパでの土地所有を認められない事が多々あった為に商業や金融業に就いていた為、更なる憎悪をかっていた。
 で、そういった差別扱いを受けていたユダヤ人達への迫害も、十字軍以降、社会不安の募る中、激化していく様になる。
 ドイツ/東欧においてはゲットー Gettoと呼ばれる劣悪な強制隔離居住区を設けられる、1215年には最大規模の宗教会議であるラテラノ公会議(第4回) Lateranoでは、教会改革などとともに、ユダヤ教徒の、キリスト教徒との通婚/荘園経営、の禁止が決められる、スペインにおいては、レコンキスタに伴ってイスラム教徒への迫害だけでなく、カトリックに改宗してもなお”マラーノ Marrano(ブタ)と蔑まれる。
 仕舞いにはペストを井戸に投げ入れ流行させたとまでいわれ、まとめ焼きされる目にも遭っている。



ビザンツ帝国の最期 (年表)

 歴史観によっては1453年のこの、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の滅亡によって中世が終わるとの見方もある。
 西ヨーロッパがカール大帝の頃まで1つの世界をつくりあげている中、東ヨーロッパではビザンツ帝国がギリシア正教とギリシア古典文化を融合した、経済的・文化的に先進文明圏として優秀な文化的世界をつくっていた。ビザンツ帝国は西ヨーロッパとは違い、ゲルマン民族の大移動による深刻な打撃は受けておらず、商業と貨幣経済が繁栄を続け、首都コンスタンティノープル(旧ビザンティウム)は欧州最大の貿易都市として栄えた。ビザンツ皇帝はキリストの代理人として教会を直接支配(これを皇帝教皇主義という)また、政治・宗教両面において最高の権力者であった。
 西ローマ帝国滅亡後も暫くはゲルマン諸国家もビザンツ皇帝の権威を認め、服従していた。
 初期の皇帝、ユスティニアヌス大帝は地中海帝国の復興をはかって、533年に北アフリカのゲルマン人国家、ヴァンダル王国を、554年にはイタリアのゲルマン人国家、東ゴート王国を征服したり、同じくゲルマン系国家、西ゴート王国からイベリア半島の一部領土を奪回したりした為、一時的に地中海ほぼ全域にローマ帝国を復活させた。
 また、内政に於いては「ローマ法大全」編纂、聖(ハギア/セント)ソフィア大聖堂建立等の事業に力を入れ、更には中国から養蚕技術をとりいれ絹織物産業発展の基礎を築く。
 これらの業績などからこの皇帝は後に大帝と呼ばれる様になった。
 しかし、長期の征服戦争による国力の低下、異民族に対し金で解決しようとした事による軍隊の弱体化・国家財政の破綻もあり、565年の帝の死後、ランゴバルド王国やフランク王国によるイタリアの剥奪、7世紀にはササン朝、次いでアラブ人ムスリムの進出によるシリア・エジプトの損失、大量なスラブ人のバルカン半島への移住、トルコ系のブルガール人による北方でのブルガリア帝国建国、その他いろいろ、によってビザンツ帝国は急速に衰退。
 10世紀〜11世紀後半にかけ、異民族撃退で一時的に勢力を回復したのだが、今度は東方から競るジューク朝の侵入を受ける。13世紀前半、1204年には第4回十字軍が首都を奪い、ラテン帝国を建国。国内は混乱。
 ビザンツ帝国はその後復活したのだが、最早、かつての勢いは失い、圧倒的に不利な状況の中2ヶ月近く抵抗を続けるも、遂に1453年にはオスマン帝国に滅ぼされる。