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それまで | ||||||||||||
| BC1500年頃 | - ヘブライ人、パレスティナに移住 | - 中国、前漢 | ||||||||||
| BC13世紀 | - 出エジプト | |||||||||||
| BC11世紀後半 | - ヘブライ王国成立 | |||||||||||
| - ヘブライ王国南北分裂 | ||||||||||||
| BC722年 | - 王政/共和制ローマ | - イスラエル王国滅亡 | ||||||||||
| BC586年 | - ユダ王国滅亡→バビロン捕囚 | |||||||||||
| BC4年頃 | - イエス誕生 | |||||||||||
| 395年頃 |
- ローマ帝国東西分裂 |
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| - 西ローマ帝国をホノリウスに | - 東ローマ帝国(ビザンツ)をアルカディウスに | バシリカ式 | ||||||||||
中世初期(500年頃-1000年頃) | ||||||||||||
| 476年 | - 西ローマ帝国帝王、ゲルマン人オドアケルの圧迫を受け退位。西ローマ帝国滅亡 (*注) | - 騎馬民族が中国を攻略(250〜500頃) | ビザンツ様式 | |||||||||
| 481年 | - クローヴィス1世がフランク王国(メロヴィング朝)を建てる。 | |||||||||||
| 493年 | - テオドリック東ゴート王国建国 | |||||||||||
| 496年 | - クローヴィスがカトリックに改宗 | |||||||||||
| 533年 | - ユスティアヌス大帝、ヴァンダル王国征服 | - ヴァンダル王国、ビザンツに征服される。 | ||||||||||
| 534年 | - ヴァンダル王国滅亡 | - ブングルト滅亡 | ||||||||||
| 554年 | - 東ゴート、ビザンツに征服される。 | - ユスティアヌス大帝、東ゴート征服 | ||||||||||
| 555年 | - 東ゴート滅亡 | |||||||||||
| 565年 | - ユスティニアヌス帝死去 | |||||||||||
| 568年 | - ロンバルド建国 | |||||||||||
| 589年 | - 隋が中国を統一 | |||||||||||
| 590年 | - グレゴリウス1世、教皇になる | |||||||||||
| 614年以降 | - ムハンマド登場 | |||||||||||
| 616年 | - 大唐帝国が成立 | |||||||||||
| 622年 | - ムハンマドが信徒とともにメッカからヤスリブ(メディナ)へ移住。イスラム集団の誕生 | |||||||||||
| 651年 | - ササン朝滅亡。西アジア・アフリカにイスラム勢力拡大 | |||||||||||
| 661年 | - ウマイヤ朝開始。シーア派が生まれる。 | |||||||||||
| 711年 | - 西ゴート王国滅亡。イスラム領ウマイヤ朝へ | |||||||||||
| 718年 | - イスラム勢力、コンスタンティノープルを攻撃 | |||||||||||
| 726年 | - ビザンツ皇帝レオン3世、聖像禁止令発布 | |||||||||||
| 732年 | - トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍を撃退 | - ウマイヤ、フランク王国に撃退される。 | ||||||||||
| 750年 | - アッバース朝開始 | |||||||||||
| 751年 | - ピピン、カロリング朝開始 | |||||||||||
| 755年 | - 唐で安禄山の乱が起こる。 | |||||||||||
| 756年 | - ローマ教皇、領ゲット | - ピピン、教皇領寄進 | ||||||||||
| 771年 | - カール、フランク国王となる。 | |||||||||||
| 800年 | - カールの戴冠 | |||||||||||
| 829年 | - エグバード、イングランド統一 | |||||||||||
| 843年 | - ヴェルダン条約により、カロリング朝の王の死後、遺子三人がフランク王国を3分割(東/西/中フランク王国)して相続する事が決まる。 | |||||||||||
| 870年 | - メルセン条約(イタリア) | - メルセン条約(西フランク)プロヴァンスを組み込む | - メルセン条約(東フランク)ロタリンギアを組み込む | |||||||||
| 907年 | - 唐、滅びる。 | |||||||||||
| 911年 | - ノルマンのロロ、キリスト教に改宗し、西フランク王国にノルマンディー地方を与えられる。 | |||||||||||
| 918年 | - 高麗建国 | |||||||||||
| 936年 | - 高麗、朝鮮半島統一 | |||||||||||
| 960年 | - チョーキョウインが宋、建国 | |||||||||||
| 962年 |
- オットーの戴冠
- 神聖ローマ帝国成立 |
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| 1000年 | ||||||||||||
中世盛期(1000年頃-1300年頃) | ||||||||||||
| 1016年 | - クヌート(デーン)、イングランド征服 | |||||||||||
| 1031年 | - 後ウマイヤ朝滅亡 | |||||||||||
| - この辺りでカスティリア/アラゴン/ポルトガル3王国建国 | ||||||||||||
| 1035年 | - クヌート死去 | - アラゴン王国独立 | ||||||||||
| 1038年 | - クヌート死去 | - カスティリア王国成立 | ||||||||||
| 1044年 | - ビルマが統一され、ビルマ人最初の王朝であるパガン朝が開かれる。 | |||||||||||
| 1054年 | - ローマ教会とコンスタンティノープル教会の分裂 | |||||||||||
| 1066年 | - ノルマンディー公ウィリアムがイングランド征服(ノルマン朝) | ロマネスク式 | ||||||||||
| 1095年 | - クレルモン宗教会議にて教皇、聖地回復を呼びかける。 | |||||||||||
| 1096年 | - 第1回十字軍結成。エルサレムへ | |||||||||||
| 1099年 | - 第1回十字軍イェルサレム王国を建てる | |||||||||||
| 1130年 | - 両シチリア王国成立 | |||||||||||
| 1143年 | - ポルトガル王国独立 | |||||||||||
| 1147年 | - 第2回十字軍結成。 | |||||||||||
| 1187年 | - サラディン、エルサレム奪還・占領 | |||||||||||
| 1189年 | - 第3回十字軍結成。 | |||||||||||
| 1191年 | - 第3回十字軍、アッコンを奪還。 | |||||||||||
| 1202年 | - 第4回十字軍結成。 | ゴシック式 |
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| 1204年 | - 十字軍によってコンスタンティノポリス陥落。ラテン帝国建国 | |||||||||||
| 1206年 | - モンゴル帝国、はじまる。 | |||||||||||
| 1212年 | - フランスにおける民間十字軍少年十字軍、奴隷として売り飛ばされたりする。 | |||||||||||
| 1219年 | - モンゴル、大遠征はじめる。 | |||||||||||
| 1227年 | - モンゴル、西夏滅ぼす。 | |||||||||||
| 1241年 | - モンゴル、第二次大遠征はじめる。 | |||||||||||
| 1270年 | - 最後の十字軍、終わる | |||||||||||
| 1271年 | - フビライハンが元王朝を開く。 | |||||||||||
中世終期(1300年頃-1500年頃) | ||||||||||||
| 1302年 | - フランス王フィリップ4世、三部会を招集。フランスにおける身分制議会の始まりとされている。 | |||||||||||
| 1303年 | - アナーニ事件によって、教皇憤死 | - アナーニ事件* | ||||||||||
| 1309年 | - フランス王フィリップ4世によって教皇庁がアヴィニョンに強行。以後教皇7代にわたってフランス支配下におかれる。 | |||||||||||
| 1368年 | - 朱ゲンショウが明を建国 | |||||||||||
| 1392年 | - 挑戦にて高麗王朝滅亡。李氏王朝が出来る。 | |||||||||||
| 1418年 | ||||||||||||
| 1453年 | - ビザンツ帝国、滅ぼされる | - ボルドー陥落。百年戦争の終息 | - 百年戦争の終息 | |||||||||
| 1456年 | - ドイツのグーテンベルク、聖書を印刷 | |||||||||||
| 1479年 | - カスティリア王国・アラゴン王国の統合により、スペイン(イスパニア)王国成立 | |||||||||||
| 1480年 | - モスクワ大公国自立 | |||||||||||
| 1488年 | - ポルトガルのバルトロメオ・ディアスがアフリカ南端の「嵐の岬」(後の喜望峰)発見 | |||||||||||
| 1492年 | - スペイン王国、イスラム最後の拠点であるグラナダを陥落させ、国土統一 | |||||||||||
| 1497年 | - ヴァスコダ・ガマがインドを目指し出発 | |||||||||||
| 1498年 | - ヴァスコダ・ガマがインド西岸カリカットへ到着 | |||||||||||
| 1499年 | - ヴァスコダ・ガマ帰国 | |||||||||||
| 1510年 | - ポルトガル船団、インドのゴアを占領 | |||||||||||
| 1511年 | - ポルトガル船団、マレー半島マラッカを占領 | |||||||||||
| 1517年 | - マルティン・ルターがレオ10世の発売させていた免罪符を批判する意見書「95ヶ条の論題」を貼り出す。 | |||||||||||
| 1518年 | - ルター、「免償についての説教」を発表 | |||||||||||
| 1535年 | - スイスに亡命したカルヴァンが「キリスト教綱要」を発表 | |||||||||||
| 1562年 | - フランス、ユグノー戦争といわれる内乱状態にはいる | |||||||||||
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ゲルマン民族大移動
バルト海沿岸を原住地としていたゲルマン人は、アルプス以北のヨーロッパにBC6世紀頃からひろく住みついていたケルト人を西に圧迫しながら勢力を拡大していた。その勢力は紀元前後頃にはライン川から黒海沿岸に至るまでの地域に拡大しており、ローマ帝国とは境を接するようになっていた。 しかし、4世紀後半になるとアジア系のフン人が押し寄せて来、ゲルマン人の一派である東ゴート人の大半を征服、更には西ゴート人を圧迫した。そこで西ゴート人は375年に南下をはじめる。これをきっかけに、他のゲルマン諸部族も大規模な移動を開始した為、約200年に及ぶゲルマン民族大移動がはじまったのだ。 大移動の根本的原因は人口増大に伴う耕地不足ともみられる。 西ゴート人はローマ略奪後、イベリア半島に建国。ヴァンダル人は北アフリカ、ブルグンド人は画リア(現在のフランス)東南部、フランク人はガリア北部へ建国。アングロ・サクソン人は 大ブリテン島に渡る。 因みに、西ローマ帝国の傭兵であったオドアケルがアウグストゥス帝を退位させたのは西ローマ帝国の政治に介入したゲルマンの力による。 一方フン人支配から脱出した東ゴート人はイタリア半島に移動。オドアケルの王国を倒しここに東ゴート王国を建国。 ゲルマン諸国家の大半は短命であったが、フランク王国はその後を着実に領土を広げ、最有力国として残った。 ところで、ケルト人は今日のアイルランド、スコットランド、ウェールズ及びブルターニュ半島に追いやられ、その後独自の文化を保ち続けた。 西ローマ帝国滅亡 (年表) "Pax Romana"「平和のローマ」も五賢帝最後のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の治世末期頃からボロが出てきた。更には元老院との争い、北のゲルマン東のササン朝(ペルシア)等、異民族の侵入もあってローマは非常に不安定な状態となる。 守備範囲を狭める為、最終的に東西に分かれたローマであったが、西ローマ帝国は次の世紀でゲルマン人侵入によって混乱を極め、遂に476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅亡させられる。 一方、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は都市経済が比較的健在で、その後1453年まで続いた。ビザンツ帝国では、皇帝がギリシア正教会を服従させ、中央集権的一元支配を維持していた。 ローマ・カトリック教会の成長 ローマ帝政末期には五本山と呼ばれる、ローマ/コンスタンティノープル/アンティオキシア/イェルサレム/アレクサンドリア、の5教会が重要であった。中でもローマ教会とコンスタンティノープル教会が有力であった。 ローマ教会は西ローマ帝国滅亡後、ビザンツ皇帝が支配するコンスタンティノープル教会から次第に分離し、独自の活動を展開するようになった教会である。 6世紀末の教皇グレゴリウス1世以来は、ゲルマン人達への修道院運動などの布教活動に熱心になり、西方教会は勢力を拡大。使徒殉教の地となったローマ教会の司教は教皇として権威を高めるようになる。 キリスト教徒は以前から聖像を礼拝していたのだが、この聖像を巡り、東西教会の断絶は深まった。事の発端は726年にビザンツ皇帝レオン3世の発布した聖像禁止令である。これは、偶像崇拝が本来のキリスト教教理に反しているという為と、また同じく偶像を禁じているのだがそれをもっとストイックに行っているイスラム教に対抗する必要にせまられた為である。布教の為聖像を必要としていたローマ教会はこれに反発。 この両教会の更なる対立の強まりによって、ローマ教会にはビザンツ皇帝に対抗出来る政治勢力をつける必要性を持ったのだ。そこでイスラム軍を破り、西方キリスト教世界を保護したフランク王国に接近し、カール・マルテルの息子であるピピンのフランク王位継承を認める。 だが、ローマ教会がフランク王国と密接な関係になるのはそのピピンの子、カール大帝の時代である。カールの戴冠の後、ローマ教会はビザンツ皇帝への従属から独立。 11世紀のキリスト教世界は教皇を首長とするローマ・カトリック教会とビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会に完全に分裂するようになる。 フランク王国の発展とメロヴィング朝 (年表) 481年、全フランク人はメロヴィング家のクローヴィスにより統一され、ガリア中部を支配下におく、東ゴート王国に並ぶ強国、フランク王国となった。 クローヴィスが正統派のアタナシウス派に改宗した当時は他のゲルマン人の多くが異端であるアリウス派キリスト教を信仰していた。クローヴィスの改宗は、後にフランク王国がローマ人貴族を支配層にとりこみ、西ヨーロッパの中心勢力になる要因となる。 6世紀半ばにはブルグンド王国などを滅ぼし、全ガリアを統一。8世紀になるとメロヴィング朝の権力は衰え、王家の行政と財政の長官である宮宰が実権を握る。 この頃、イスラーム勢力がアラビア半島から急速にひろがり、地中海世界にも侵入をはじめていた。ウマイヤ朝イスラム教徒は北アフリカを西進、711年には西ゴート王国を滅ぼし、遂にはガリアへと侵攻しようとしていたのだ。メロヴィング朝の宮宰であったカール・マルテルは732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝イスラム軍を撃退。その子ピピンが751年にメロヴィング朝廃止、カロリング朝をスタートさせる。 この頃までゲルマン諸国家は大体が旧西ローマ帝国の統治制度を受け継いでいたのだが、イスラーム勢力の侵入により自体は変化していった。 カール大帝 (年表) ピピンの子、カール(シャルルマーニュ)大帝の時代は、ローマ教会とフランク王国の関係が最も強かった頃の事である。 カール大帝はランゴバルド王国を征服、北東のザクセン人を服従させ、大陸における大多数のゲルマン諸部族を統合し、ローマ・カトリックに改宗させた。また、東ではモンゴル系のアヴァール人を、南ではイスラム教徒を撃退。西ヨーロッパの主要部分をフランク王国によって統一。広大な領土の支配において全国を州にわけ、地方の有力豪族達を各州の長官である伯として任命。また巡察使を派遣した。 かくしてフランク王国はビザンツ帝国と並ぶ強大国へと成長したのである。 カール大帝の活躍振りを見て、ローマ教会教皇レオ3世はすかさず800年、彼にローマ帝の帝冠を与え、「西ローマ帝国」の復活を宣言。これがカールの戴冠である。 フランク王国の分裂 (年表) カールの帝国の実態はカールと伯との個人的な結びつきにより成り立ったものに過ぎなかった。彼の死後の内紛後843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によってフランク王国は東西フランク・イタリアの三つに分裂した。 後のドイツ・東フランクは10世紀初頭、後のフランス・西フランクでは10世紀末、更にはイタリアでも、ともにカロリング朝の血筋は断絶。 その後東フランクでは各部族を支配する諸侯の選挙で王を選ぶようになる。その内のザクセン家のオットー1世は、マジャール人やスラヴ人の侵入を退ける、北イタリアを制圧する、という功績を収め962年には教皇からローマ皇帝の位を与えられた。こうして東フランクは神聖ローマ帝国へとなったのである。しかし、皇帝はイタリア支配に積極的にのりだしたイタリア政策にのめり込み過ぎた為、本国を疎かにし、国内の不統一をもたらした、という事がその分裂・衰退を導く結果となった。 一方西フランクでのその後は、パリ伯であったユーグ・カペーが王位に就き、カペー朝を開いたというものであったが、その王権は極めて弱く、多数の高い権力をもった大諸侯が分立していた。因みに、カペー以後、西フランク王国はフランス王国と呼ばれる様になる。 また、イタリアでのその後は神聖ローマ帝国の介入、イスラム勢力の侵入で乱れる。ローマを中心とした教皇領のように、北イタリアではジェノヴァやヴェネツィアなどの都市が独立。 西ヨーロッパへの外敵 西ヨーロッパには8〜10世紀の間絶えず異民族が侵入してきていた。 東方からは、スラヴ人がフランク王国を脅かす。イスラーム教徒はその後にも南イタリアや南フランスにひたすら侵攻。またアヴァール人やマジャール人も頻繁に侵攻をしていた。 しかし、こういった外敵は東方からの異民族ばかりでなく、元々ゲルマン人一派であるヴァイキングもなかなか活発に侵攻していたのだ。 このヴァイキングとはスカンジナビア半島やユトランド半島に住んでいた北ゲルマン人、ノルマン人の一部である。ヴァイキングとしておそれられていた彼等は、細長く底の浅い特徴を持つヴァイキング船に乗り、商業や海賊・略奪を目的としてヨーロッパ各地に遠征を行う様になった人々である。 10世紀初頭、ロロ(後のロベール1世)のひきいる一派は北フランスに上陸し911年ノルマンディー公国を建国。ここから更に分かれた一派は12世紀前半に南イタリア、シチリアに親友し、両シチリア王国を建国する。大ブリテン島のアングロ・サクソン王国もまたヴァイキングの侵入に悩まされており、9世紀には一時アルフレッド大王がこれを撃退するが、1016年には遂に他の一派であるデーン人、クヌートに征服される。ただしクヌートは35年に死去。死後、アングロ・サクソン系の復活・後継者争いなどで彼の、イングランド、デンマーク、ノルウェーの三国でつくった国家連合、北海帝国は僅か7年で崩壊。 アングロ・サクソン系の王家はノルマンディの支援を受け、エドワード懺悔王が即位する事によって後にまた復活するのだが、デーン人とノルマンディ人の影響、更には適当な後継者の不在や後継者のあまりの若さにより非常に不安定であった。1066年にノルマンディー公ウィリアムが王位を主張して攻め込み、ウィリアム一世(William the Conqueror)としてノルマン朝を建てる。これが、ノルマン・コンクエストである。 また、リューリクを首領としていたノルマンの一派は、ドニエプル水系のスラブ人地域に進出し、スラブ人達にルーシ族と呼ばれていた。彼等は9世紀にノヴゴロド国、次いでキエフ公国を建設。これがロシアのはじまりである。 またノルマン人には他にもアイスランド、グリーンランドに移住した者、更には北アメリカに到達した者も居た。一方原住地ではデンマーク、スウェーデン、ノルウェーと諸王国が建国される。 彼等ノルマン人の移動が終わったのは、彼等がキリスト教化されてからの事である。随分と長い期間を、西ヨーロッパは不安と混乱に嘖まれた訳だが、かくして北欧は西ヨーロッパの一部としての足場を獲得したのであった。 十字軍遠征 基本的にローマ教皇の呼びかけにより結成された聖地を目指す軍を指す。
この期間にはまた、聖地への巡礼保護の為、1190年アッコンで設立されたドイツ騎士団など、聖地守護のための修道騎士による組織である宗教騎士団が各地で活躍した。 他の宗教騎士団については、第1回十字軍の時結成され1887年までエルサレムで救護などをし、後に本拠を移してマルタ騎士団とも呼ばれるようになったヨハネ騎士団、1119年に設立され寄進を受け富裕化/拡大しその富を狙ったフィリップ4世の弾圧を受けて1312年解散させられたテンプル騎士団がいた。 1212年、ドイツ/フランスで神のお告げをきいたという少年らが主導し、途中帰郷に留まらず船の難破や奴隷として売られるなどの目に遭い失敗におった少年十字軍の様に熱狂的動悸から興り、悲劇的結末に終わる運動もあった。 相次ぐ遠征の失敗によって教皇の権威は揺らぎ始め、遠征を指揮した国王の権威が高まる様になる。また、十字軍輸送によりイタリアの諸都市は繁栄。東方との交易が再び盛んとなる。これによって東方から先進文明圏であるビザンツ、イスラムからの文物が西ヨーロッパに入って来るようになった。 封建社会と十字軍の爪痕 十字軍の業績は中世封建社会の崩れに大きな影響を残したと言えるだろう。 封建制の安定と農業生産の増大により、余分な生産物が出現する様になる。そこでそれらを交換し合う不定期市が定期市、そして固定店舗へと成長していき、貨幣の貯蓄などを避ける傾向にあるムスリム商人や、ノルマン人の商業活動によってそれまで衰えていた貨幣経済は再活性化する。加えて十字軍の活動の影響による交通の発達で行われるようになった、北イタリアのイスラム商業圏との貿易や北海・バルト海貿易などの遠隔地商業によって発達する都市は現れる。 商業ルネサンス(商業の復活)とは11世紀から12世紀にかけておこったこの様な経済や都市に於ける発展を指す。(参考:ルネサンス)
ビザンツ帝国の最期 (年表) 歴史観によっては1453年のこの、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の滅亡によって中世が終わるとの見方もある。 西ヨーロッパがカール大帝の頃まで1つの世界をつくりあげている中、東ヨーロッパではビザンツ帝国がギリシア正教とギリシア古典文化を融合した、経済的・文化的に先進文明圏として優秀な文化的世界をつくっていた。ビザンツ帝国は西ヨーロッパとは違い、ゲルマン民族の大移動による深刻な打撃は受けておらず、商業と貨幣経済が繁栄を続け、首都コンスタンティノープル(旧ビザンティウム)は欧州最大の貿易都市として栄えた。ビザンツ皇帝はキリストの代理人として教会を直接支配(これを皇帝教皇主義という)また、政治・宗教両面において最高の権力者であった。 西ローマ帝国滅亡後も暫くはゲルマン諸国家もビザンツ皇帝の権威を認め、服従していた。 初期の皇帝、ユスティニアヌス大帝は地中海帝国の復興をはかって、533年に北アフリカのゲルマン人国家、ヴァンダル王国を、554年にはイタリアのゲルマン人国家、東ゴート王国を征服したり、同じくゲルマン系国家、西ゴート王国からイベリア半島の一部領土を奪回したりした為、一時的に地中海ほぼ全域にローマ帝国を復活させた。 また、内政に於いては「ローマ法大全」編纂、聖(ハギア/セント)ソフィア大聖堂建立等の事業に力を入れ、更には中国から養蚕技術をとりいれ絹織物産業発展の基礎を築く。 これらの業績などからこの皇帝は後に大帝と呼ばれる様になった。 しかし、長期の征服戦争による国力の低下、異民族に対し金で解決しようとした事による軍隊の弱体化・国家財政の破綻もあり、565年の帝の死後、ランゴバルド王国やフランク王国によるイタリアの剥奪、7世紀にはササン朝、次いでアラブ人ムスリムの進出によるシリア・エジプトの損失、大量なスラブ人のバルカン半島への移住、トルコ系のブルガール人による北方でのブルガリア帝国建国、その他いろいろ、によってビザンツ帝国は急速に衰退。 10世紀〜11世紀後半にかけ、異民族撃退で一時的に勢力を回復したのだが、今度は東方から競るジューク朝の侵入を受ける。13世紀前半、1204年には第4回十字軍が首都を奪い、ラテン帝国を建国。国内は混乱。 ビザンツ帝国はその後復活したのだが、最早、かつての勢いは失い、圧倒的に不利な状況の中2ヶ月近く抵抗を続けるも、遂に1453年にはオスマン帝国に滅ぼされる。 |