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始点とされる辺り(1447年-1545年) | ||||||||||||
| 1453年 | - ビザンツ帝国、滅ぼされる | - ボルドー陥落。百年戦争の終息 | - 百年戦争の終息 | |||||||||
| 1456年 | - ドイツのグーテンベルク、聖書を印刷 | |||||||||||
| 1479年 | - カスティリア王国・アラゴン王国の統合により、スペイン(イスパニア)王国成立 | |||||||||||
| 1480年 | - モスクワ大公国自立 | |||||||||||
| 1488年 | - ポルトガルのバルトロメオ・ディアスがアフリカ南端の「嵐の岬」(後の喜望峰)発見 | |||||||||||
| 1492年 |
- スペイン王国、イスラム最後の拠点であるグラナダを陥落させ、国土統一
- コロンブスの船団、インドへ向け派遣される |
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| 1497年 | - ヴァスコダ・ガマがインドを目指し出発 | |||||||||||
| 1498年 | - ヴァスコダ・ガマがインド西岸カリカットへ到着 | |||||||||||
| 1499年 | - ヴァスコダ・ガマ帰国 | |||||||||||
| 1510年 | - ポルトガル船団、インドのゴアを占領 | |||||||||||
| 1511年 | - ポルトガル船団、マレー半島マラッカを占領 | |||||||||||
| 1517年 | - マルティン・ルターがレオ10世の発売させていた免罪符を批判する意見書「95ヶ条の論題」を貼り出す。 | |||||||||||
| 1518年 | - ルター、「免償についての説教」を発表 | |||||||||||
| 1535年 | - スイスに亡命したカルヴァンが「キリスト教綱要」を発表 | |||||||||||
間に何があったのか(1545年頃-1750年頃) | ||||||||||||
| 1562年 | - フランス、ユグノー戦争といわれる内乱状態にはいる | |||||||||||
終点とされる辺り(1750年頃-1789年頃) | ||||||||||||
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レコンキスタ(国土回復運動)
(718年 - 1492年)
イスラム教徒が西ゴート王国を滅ぼし後ウマイヤ朝を建てたイベリア半島を取り戻そうと、北部のキリスト教徒がおこした運動。 12世紀迄には半島の北半分がキリスト教徒圏に入り、11世紀頃からはその領土にカスティリアCastilla/アラゴンAragon/ポルトガルPortugal(カスティリア/アラゴン/レオン)の3王国がたてられた。 アラゴンと、1236年にコルドバを占領したカスティリアはその王子フェルナンド(アラゴン)と王女イサベル(カスティリア)の結婚によって1479年に統合、スペイン(イスパニア)王国となる。 ポルトガル王国は1143年にカスティリアから分離独立。 レコンキスタはスペイン王国の2人の共同統治により、1492年、イスラム勢力最後の拠点であったグラナダを略奪、国土統一した事によって完成した。 ポルトガル国王ジョアン2世は貴族の反乱を鎮定し王権を強化、スペイン王国も国内貴族の勢いをおさえ、両国共に海外進出へ向け積極的になる。 大航海時代 十字軍以来、ヨーロッパは東方との交流やマルコ・ポーロの「世界の記述(東方見聞録)」などに刺激され、アジアに対する関心を高めるようになる。そしてその一方では羅針盤の改良、快速帆船の普及などで実際に遠洋航海が可能となっていた。 特に、金や胡椒などの香辛料などは人々のアジアへの関心をひきつけた。14世紀にはイスラム商人と結びついた北イタリア商人がインドからの胡椒貿易を独占。当時の胡椒とはヴェネツィアでは同重量の銀と交換された程の貴重品であった為、インドとの直接貿易や、アジア進出を目指し、インド航路の発見が求められるようになる。 「インド」(またはインディアス)というのは当時の西ヨーロッパ人にとって東アジア/東南アジア/南アジアを含むアジア大陸東洋の漠然とした地域の呼称である。 更にレコンキスタの中で戦ってきたポルトガルやスペインではキリスト教布教の意欲も高まっていた。 ポルトガルの航海 ポルトガルの商人は15世紀初頭からアフリカ西岸の探検にのりだしていた。 ジョアン1世在位の頃、その第三子であったエンリケ(Henrique)「航海王子」は1415年頃からこういった事業を更に推進。インドとの直接の貿易の為、アフリカ南端をまわってインドへ辿り着くといった計画をして天文台や航海探検センターを開設しマディラからガンビア河口までを探検、多くの島々を発見。しかし、本人は船酔いがひどかった為、あまり航海しなかったといわれている。 この頃は船の開発も進み、カラベラ船やカラック船が開発される。 またエンリケの死の約30年後ではあるが、着々とアフリカ開拓を進めていった結果、1488年にポルトガルの航海者ディアスは遂にアフリカ南端へ到着。その岬を「嵐の岬」と名付ける。(後に「希望峰」と改名された。) ジョアン2世治世の頃には、ヴァスコダ・ガマが希望峰をまわり現在のモザンビークにあたるイスラム勢力圏でムスリムの水先案内人を雇い1498年、インド西岸のカリカットへ到達。当時カリカットはムスリム商人との貿易で潤っており、ムスリムの商人とヨーロッパ人である彼等は対立関係にあったが、イスラム商船群を不意打ちにしカリカット王より貿易許可状を受ける。季節風を利用し、1499年には何とかポルトガルに帰還。ガマは「インド洋提督」の称号を得、伯爵に命じられるが1524年にはインドでマラリア感染によって病死する。因みに彼は伝説の王国プレスター・ジョンを発見したとも云われる。 ガマのインド航路発見によってその後もポルトガルは多くの船団をアジアへ進出させる。1510年にはインドのゴア、1511年にはマレー半島マラッカを占領。 こうした業績によって実現した香辛料の直接取引はポルトガル王室に莫大な利益をもたらし、首都リスボンを一時の世界商業の中心とさせた。 コロンブスの航海とほぼ同時期、1500年にはカブラルがブラジルに漂着し、その地をポルトガル領としている。 スペインの航海 スペインはポルトガルに遅れ、女王イサベルが1492年にジェノヴァ生まれのコロンブスの船団をインドへ向け派遣。 コロンブスはアジア到達を目指すにあたって、地球球体説を主張するフィレンツェの天文学者トスカネリの説を信じ、大西洋を西に向かって進む大西洋航路を選んだ。そして72日の航海の後、出発同年にカリブ海にある現在のバハマ諸島の一部に到着。到達地を「サン・サルバドル」と名付ける。その後も何度か航海を続け、今日のアメリカ大陸に上陸したがこれらの土地々々をインドの一部だと信じ込み、先住民をインディオと呼ぶ。また、コロンブスは結局金銀や胡椒の発見も植民地経営にも失敗。第一回目の航海の帰国後は英雄として迎えられた彼は、かつての部下の起こした反乱などにより、仕舞いには失脚し隠退する事となる。 アメリカの名の由来となったイタリア人アメリゴ・ヴェスプッチは4回に渡ってコロンブスの発見した大陸を探検・調査。1501年からの航海報告でこの地がアジアとは別の新大陸である事を明確にした。 1519年にスペイン王室はポルトガル人マゼラン(マガリャンイス)に香辛料の特産地モルッカ諸島を目指す様命じる。 マゼランはスペイン艦隊を引き連れ、西回りの大航海へと出発する。南アメリカ南端の海峡(マゼラン海峡)を経て「平和な海」太平洋を横切り、1521年、現在のフィリピン諸島へ到達。しかし、マゼランはそのうちのセブ島とその対岸にあるマクタン島との争いに巻き込まれ、マクタン島のラプラプ王に殺され戦死。残った部下の一部である一隻がアフリカ周りで翌年スペインへ帰国。史上初の世界周航を成し遂げ、大地が球体である事を証明。 現フィリピンは、1542年皇太子フェリペにちなみ、命名され、1565年の領有宣言から1898年までスペイン領となる。 1521年には、スペイン人「征服者」(コンキスタドール Conquistador)のコルテスが、「征服者」の率いる軍隊とともにスペイン王室からアメリカ大陸に送りこまれ、アステカ王国を破ってメキシコを征服する。1533年にはピサロがインカ帝国を滅ぼし、首都クスコを破壊、新たに首都リマを建設する。 スペイン人の植民者はインディオを労働力として酷使し、その過酷な労役は彼等の人口を激減させる伝染病の他の大きな原因となった。しかし、スペイン人にも一部にはドミニコ派修道士ラス・カサスの様にインディオの救済に努めた人物も存在した。彼は1552年、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著してスペイン国王カルロス1世のもとへエンコミエンダ制(1503年頃からスペインが採用した新大陸の土地制度で、征服者は先住民をキリスト教徒化させる事によって労働力として使役出来るというもの)、またそれによるインディオの酷使を激しく弾劾する報告をした。 ルネサンス ルネサンス(Reneissance)とは、「再生」を意味するフランス語である。日本語では、「文芸復興」とも訳される。19世紀のフランス人歴史家であるミシュレが初めて学問的に使用した。決定的に認知される様になったのはドイツのブルクハルトによる1860年の書物から。 14世紀から16世紀にかけイタリアではじめられた芸術/思想上の新たな諸運動である。この、所謂ルネサンスは基本的に古代ギリシア・ローマの文化を模範とし、現世に生きる喜びや楽しみ、理性・感情の活動が重視された、ヒューマニズム、つまり人文主義(人間主義)の思想に基づいたものとされる。< しかしそれ以外にも古代文化の復興運動として「ルネサンス」を名乗る事はある:フランク王国カール大帝の「カロリング朝ルネサンス」や東ローマ帝国の「マケドニア朝ルネサンス」、帝国末期の「パレオロゴス朝ルネサンス」、「12世紀ルネサンス」、カルロス・ゴーンの「ルネッサンス」などなど。 ルネサンスはそれまでの神や教会を中心としてきた中世的世界観から、人間を中心とした人文主義的世界観への転換の模索が行われるという、世界観の方向性に関する一大事件である。また、貴族的であったり保守的な面も指摘されている。 実際には「12世紀ルネサンス」が在るように、ルネサンスのはじまりなどのはっきりとした定義はないのだが、この頃に起きたこの文化運動こそが劇的な変化をつけたのだろう。 政争・戦乱・ペストの流行が続く。そして文化を享受していたのはパトロンとなるような類いの極一部の人々に過ぎなかった。
国、王、政治、家 13世紀以降は各国君主が、そのの諮問機関である身分制議会 Estatesを開くようになった。国内統一をはかる為、この議会は、貴族(諸候)/聖職者以外に新たに市民代表として都市の代表を加え、構成されていた。身分制議会の形は細かい部分で各国様々であるが、都市の代表とはギルドの親方または大商人である事が多かった。特にドイツにおいては都市は帝国都市であり、議会も帝国議会と呼ばれる。 こうして、各国における王権の伸張や中央集権化は様々なスタイルで展開していく。
宗教改革
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