ÉOQUE MODERNE

- 古代ローマ - 中世 - 近世 - 近代

 ヨーロッパ史における近世とは、ルネサンスでつくられた「古代・中世・近代」の3区分法を参考に後につくられた4区分法における「古代・中世・近世・近代」の近世にあたる。つまり中世よりも後、近代よりも前の時期である。因みにこの区分法は現在一般的に使われているものだが、また区分法を考えねばならない時には更に面倒だろう。
 その始点と終点には諸説あるが、大体は15世紀〜16世紀前半のルネサンス・宗教改革・大航海時代あたりから18世紀後半〜19世紀初頭の市民革命・産業革命の前あたりを指す。

 Key:ルネサンス/大航海時代/宗教改革/反宗教改革/絶対王政/重商主義/啓蒙主義/ロシア帝国

始点とされる辺り(1447年頃-1545年頃)
スペインとポルトガル
 - レコンキスタ(国土回復運動)
 - 大航海時代
    ⌊ ポルトガルの航海
    ⌊ スペインの航海
ルネサンス
 - イタリア・ルネサンス
 - 文芸
 - 科学と技術
 - ルネサンスの育つ環境
国、王、政治、家
 - イングランド
 - フランス
 - 百年戦争
 - バラ戦争
 - ドイチュラント
間に何があったのか(1545年頃-1750年頃)
宗教改革
 - 教皇権の衰退
 - ルターから始まる宗教改革
 - 対抗(反)宗教改革
終点とされる辺り(1750年頃-1789年頃)
ビザンツ帝国の最期




始点とされる辺り(1447年-1545年)

1453年

- ビザンツ帝国、滅ぼされる
- ボルドー陥落。百年戦争の終息
- 百年戦争の終息




1456年




- ドイツのグーテンベルク、聖書を印刷





1479年







- カスティリア王国・アラゴン王国の統合により、スペイン(イスパニア)王国成立


1480年


- モスクワ大公国自立







1488年








- ポルトガルのバルトロメオ・ディアスがアフリカ南端の「嵐の岬」(後の喜望峰)発見

1492年







- スペイン王国、イスラム最後の拠点であるグラナダを陥落させ、国土統一
- コロンブスの船団、インドへ向け派遣される



1497年








- ヴァスコダ・ガマがインドを目指し出発

1498年








- ヴァスコダ・ガマがインド西岸カリカットへ到着

1499年








- ヴァスコダ・ガマ帰国

1510年








- ポルトガル船団、インドのゴアを占領

1511年








- ポルトガル船団、マレー半島マラッカを占領

1517年




- マルティン・ルターがレオ10世の発売させていた免罪符を批判する意見書「95ヶ条の論題」を貼り出す。





1518年




- ルター、「免償についての説教」を発表





1535年



- スイスに亡命したカルヴァンが「キリスト教綱要」を発表






間に何があったのか(1545年頃-1750年頃)

1562年



- フランス、ユグノー戦争といわれる内乱状態にはいる






終点とされる辺り(1750年頃-1789年頃)



レコンキスタ(国土回復運動) 718年 - 1492年

 イスラム教徒が西ゴート王国を滅ぼし後ウマイヤ朝を建てたイベリア半島を取り戻そうと、北部のキリスト教徒がおこした運動。
 12世紀迄には半島の北半分がキリスト教徒圏に入り、11世紀頃からはその領土にカスティリアCastilla/アラゴンAragon/ポルトガルPortugal(カスティリア/アラゴン/レオン)の3王国がたてられた。
 アラゴンと、1236年にコルドバを占領したカスティリアはその王子フェルナンド(アラゴン)と王女イサベル(カスティリア)の結婚によって1479年に統合、スペイン(イスパニア)王国となる。
 ポルトガル王国は1143年にカスティリアから分離独立。
 レコンキスタはスペイン王国の2人の共同統治により、1492年、イスラム勢力最後の拠点であったグラナダを略奪、国土統一した事によって完成した。
 ポルトガル国王ジョアン2世は貴族の反乱を鎮定し王権を強化、スペイン王国も国内貴族の勢いをおさえ、両国共に海外進出へ向け積極的になる。


大航海時代

 十字軍以来、ヨーロッパは東方との交流やマルコ・ポーロの「世界の記述(東方見聞録)」などに刺激され、アジアに対する関心を高めるようになる。そしてその一方では羅針盤の改良、快速帆船の普及などで実際に遠洋航海が可能となっていた。
 特に、金や胡椒などの香辛料などは人々のアジアへの関心をひきつけた。14世紀にはイスラム商人と結びついた北イタリア商人がインドからの胡椒貿易を独占。当時の胡椒とはヴェネツィアでは同重量の銀と交換された程の貴重品であった為、インドとの直接貿易や、アジア進出を目指し、インド航路の発見が求められるようになる。
 「インド」(またはインディアス)というのは当時の西ヨーロッパ人にとって東アジア/東南アジア/南アジアを含むアジア大陸東洋の漠然とした地域の呼称である。
 更にレコンキスタの中で戦ってきたポルトガルやスペインではキリスト教布教の意欲も高まっていた。


ポルトガルの航海

 ポルトガルの商人は15世紀初頭からアフリカ西岸の探検にのりだしていた。
 ジョアン1世在位の頃、その第三子であったエンリケ(Henrique)「航海王子」は1415年頃からこういった事業を更に推進。インドとの直接の貿易の為、アフリカ南端をまわってインドへ辿り着くといった計画をして天文台や航海探検センターを開設しマディラからガンビア河口までを探検、多くの島々を発見。しかし、本人は船酔いがひどかった為、あまり航海しなかったといわれている。
 この頃は船の開発も進み、カラベラ船やカラック船が開発される。
 またエンリケの死の約30年後ではあるが、着々とアフリカ開拓を進めていった結果、1488年にポルトガルの航海者ディアスは遂にアフリカ南端へ到着。その岬を「嵐の岬」と名付ける。(後に「希望峰」と改名された。)
 ジョアン2世治世の頃には、ヴァスコダ・ガマが希望峰をまわり現在のモザンビークにあたるイスラム勢力圏でムスリムの水先案内人を雇い1498年、インド西岸のカリカットへ到達。当時カリカットはムスリム商人との貿易で潤っており、ムスリムの商人とヨーロッパ人である彼等は対立関係にあったが、イスラム商船群を不意打ちにしカリカット王より貿易許可状を受ける。季節風を利用し、1499年には何とかポルトガルに帰還。ガマは「インド洋提督」の称号を得、伯爵に命じられるが1524年にはインドでマラリア感染によって病死する。因みに彼は伝説の王国プレスター・ジョンを発見したとも云われる。
 ガマのインド航路発見によってその後もポルトガルは多くの船団をアジアへ進出させる。1510年にはインドのゴア、1511年にはマレー半島マラッカを占領。
 こうした業績によって実現した香辛料の直接取引はポルトガル王室に莫大な利益をもたらし、首都リスボンを一時の世界商業の中心とさせた。
 コロンブスの航海とほぼ同時期、1500年にはカブラルがブラジルに漂着し、その地をポルトガル領としている。


スペインの航海

 スペインはポルトガルに遅れ、女王イサベルが1492年にジェノヴァ生まれのコロンブスの船団をインドへ向け派遣。
 コロンブスはアジア到達を目指すにあたって、地球球体説を主張するフィレンツェの天文学者トスカネリの説を信じ、大西洋を西に向かって進む大西洋航路を選んだ。そして72日の航海の後、出発同年にカリブ海にある現在のバハマ諸島の一部に到着。到達地を「サン・サルバドル」と名付ける。その後も何度か航海を続け、今日のアメリカ大陸に上陸したがこれらの土地々々をインドの一部だと信じ込み、先住民をインディオと呼ぶ。また、コロンブスは結局金銀や胡椒の発見も植民地経営にも失敗。第一回目の航海の帰国後は英雄として迎えられた彼は、かつての部下の起こした反乱などにより、仕舞いには失脚し隠退する事となる。
 アメリカの名の由来となったイタリア人アメリゴ・ヴェスプッチは4回に渡ってコロンブスの発見した大陸を探検・調査。1501年からの航海報告でこの地がアジアとは別の新大陸である事を明確にした。
 1519年にスペイン王室はポルトガル人マゼラン(マガリャンイス)に香辛料の特産地モルッカ諸島を目指す様命じる。
 マゼランはスペイン艦隊を引き連れ、西回りの大航海へと出発する。南アメリカ南端の海峡(マゼラン海峡)を経て「平和な海」太平洋を横切り、1521年、現在のフィリピン諸島へ到達。しかし、マゼランはそのうちのセブ島とその対岸にあるマクタン島との争いに巻き込まれ、マクタン島のラプラプ王に殺され戦死。残った部下の一部である一隻がアフリカ周りで翌年スペインへ帰国。史上初の世界周航を成し遂げ、大地が球体である事を証明。
 現フィリピンは、1542年皇太子フェリペにちなみ、命名され、1565年の領有宣言から1898年までスペイン領となる。
 1521年には、スペイン人「征服者」(コンキスタドール Conquistador)のコルテスが、「征服者」の率いる軍隊とともにスペイン王室からアメリカ大陸に送りこまれ、アステカ王国を破ってメキシコを征服する。1533年にはピサロがインカ帝国を滅ぼし、首都クスコを破壊、新たに首都リマを建設する。
 スペイン人の植民者はインディオを労働力として酷使し、その過酷な労役は彼等の人口を激減させる伝染病の他の大きな原因となった。しかし、スペイン人にも一部にはドミニコ派修道士ラス・カサスの様にインディオの救済に努めた人物も存在した。彼は1552年、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著してスペイン国王カルロス1世のもとへエンコミエンダ制(1503年頃からスペインが採用した新大陸の土地制度で、征服者は先住民をキリスト教徒化させる事によって労働力として使役出来るというもの)、またそれによるインディオの酷使を激しく弾劾する報告をした。


ルネサンス

 ルネサンス(Reneissance)とは、「再生」を意味するフランス語である。日本語では、「文芸復興」とも訳される。19世紀のフランス人歴史家であるミシュレが初めて学問的に使用した。決定的に認知される様になったのはドイツのブルクハルトによる1860年の書物から。
 14世紀から16世紀にかけイタリアではじめられた芸術/思想上の新たな諸運動である。この、所謂ルネサンスは基本的に古代ギリシア・ローマの文化を模範とし、現世に生きる喜びや楽しみ、理性・感情の活動が重視された、ヒューマニズム、つまり人文主義(人間主義)の思想に基づいたものとされる。<
 しかしそれ以外にも古代文化の復興運動として「ルネサンス」を名乗る事はある:フランク王国カール大帝の「カロリング朝ルネサンス」や東ローマ帝国の「マケドニア朝ルネサンス」、帝国末期の「パレオロゴス朝ルネサンス」、「12世紀ルネサンス」、カルロス・ゴーンの「ルネッサンス」などなど。
 ルネサンスはそれまでの神や教会を中心としてきた中世的世界観から、人間を中心とした人文主義的世界観への転換の模索が行われるという、世界観の方向性に関する一大事件である。また、貴族的であったり保守的な面も指摘されている。
 実際には「12世紀ルネサンス」が在るように、ルネサンスのはじまりなどのはっきりとした定義はないのだが、この頃に起きたこの文化運動こそが劇的な変化をつけたのだろう。
 政争・戦乱・ペストの流行が続く。そして文化を享受していたのはパトロンとなるような類いの極一部の人々に過ぎなかった。


・イタリア・ルネサンス
 14世紀から15世紀を中心に北イタリア/フィレンツェなどの地中海貿易で繁栄したトスカーナ地方諸都市で展開されたルネサンスを指す。イタリア風にいえばこれこれそういうRinascimentoである。
 ”ルネサンス”は一般的にこのイタリア・ルネサンスからはじまったとされるが、そのはじまりの理由をいくつか挙げる事が可能であろう。
  • 十字軍以降大量に流入してきた先進的なビザンツ文化やイスラム世界の影響
  • 東方貿易での利益が都市を繁栄させた事による、市民意識の高揚
  • イタリアが古代ローマ帝国の栄えた土地であった為に在った文化的遺産
 フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ヴェネツィアなどの都市でルネサンス文化は開花したのだが、そこには芸術家達を支持するパトロン達の存在がある。フィレンツェのメディチ家、ミラノ公、またはローマ教皇などがよく知られているのだが、こういった貴族や教皇が庇護者であるシステムのために、イタリア・ルネサンスは保守的な面も持っていた。よって、ルネサンスは既存の政治/教会/社会体制を正面から批判するムーヴメントとはならなかったのだ。
 16世紀後半になると、貿易の中心が地中海から移動し、その上イタリアはイタリア戦争の舞台となってしまった為にイタリア・ルネサンスは急激に凋落する。
 ダンテ/ペトラルカ/ジョット/フィチーノ/ブルネレスキ/アルベルティ/ミケランジェロ/レオナルド・ダ・ヴィンチ/ラファエロ/ブルーノ/ガリレオ・ガリレイ/マキアヴェリ/ボッカチオ/ボッティチェリ


・文芸
 ルネサンス文学・美術はなんといってもイタリアが先駆者といえるだろう。
 有名なルネサンス人は、こんな感じだろうか。

 と列挙するその前に、ルネサンス文芸についての動きを少々。
 人文主義(humanism)とは、古代ギリシア/古代ローマの古典を学び中世的禁欲主義から脱し人間そのものを肯定するというルネサンスの根本的思想。この思想に基づいてルネサンス文芸人達は、人間の様々な欲望や裸の姿を表現に用いた。
 特に文学における大きな変化はトスカナ語の使用だろう。トスカナ語とは、トスカナ地方で使われていた口語で、現在のイタリア語に発展したものである。ダンテの「神曲」はこの言語を用いており、元祖近代国民文学作品とも評される。

文学

     ダンテ(1265 - 1321):フィレンツェ出身の詩人。著者自身が、古代ローマの詩人ヴェルギリウスに導かれ地獄・煉獄・天国を巡るという叙事詩「神曲」で知られる。またその代表作には、少女ベアトリーチェに対するダンテの神秘的な愛の体験を語る「新生」など

     ペトラルカ(1304 - 1374):イタリアの詩人/人文主義者(Umanista)。古代ローマをたたえ、中世を人間を否定した”暗黒時代”と考えた。古代文献の収集・復活に力を入れ、古代ブームの発端となる。代表作は「叙情詩集」、「アフリカ」

     ボッカチオ(1313 - 1375):フィレンツェの商人の子で、人文主義者。ギリシア古典を研究し、ホメロスをラテン語訳した初めての人。ペトラルカと親交があった。代表作「デカメロン」はダンテの神曲に対して「人曲」と呼ばれ、近代小説の原型とされている。

     ジェフリー・チョーサー(1340頃 - 1400):イギリス・ルネサンス作家の先駆者的な人で、詩人。官史生活を送ったこともある。ボッカチオの影響を受け、デカメロンのイギリス版ともいえる「カンタベリ物語」を著す。

     ロイヒリン(1455 - 1522):ドイツの人文主義者。古典研究の範囲をヘブライ語にまで広げた。

     マキァヴェリ(1469 - 1527):フィレンツェの政治家/歴史家。宗教改革の先駆者ともいわれる修道士サヴァナローラ失脚後の共和政府で内外交に活躍する。二十年程の執筆期間をかけ、1532年に刊行した「君主論」は、イタリアの統一を成す方法を考察する中で生み出された。その中で、政治は、宗教や道徳とは切り離した現実的な視点をもって行う必要性があると主張し、歴史上の実例を数多く挙げて政治力学を分析。後に、目的の為には手段を選ばないといった権謀術数をしめすマキァヴェリズムという言葉が生まれる。

     トマス・モア(1478 - 1535):イギリスの政治家/人文主義者。また、弁護士としても活動し、最高の官職であった大法官の地位まで昇り詰める。伊人文主義者フィチーノの著作に影響を受ける。エラスムスとの交友があった。ヘンリ8世の離婚に反対した為処刑される。代表作はイギリスの拝金主義的な政治と社会を風刺・批判した「ユートピア」

     エラスムス(1469 - 1536):ネーデルラントの人文主義者。古典・神学に通じ、カトリックの堕落を痛烈に風刺した「愚神礼賛」で宗教改革に大きな影響を与える。しかし自らは運動に関わらずルターとは対立する。

     ラブレー(1494頃 - 1553):フランス・ルネサンス初期の人文主義者で、その本業は医師。ギリシャ古典を研究する。荒唐無稽な巨人ガルガンチュアと正直素朴なその子パンタグリュエルを描いた2部作「ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語」は、社会的因習を風刺している。

     モンテーニュ(1533 - 1592):フランスの人文主義者。フランス宗教戦争期を生き、ボルドー市長に選出され、ユグノー戦争の調停に奔走する。代表作は、公私にわたる自己の観察・考察をつづったエッセイ「随想録」

     セルバンテス(1547 - 1616):スペインの作家。スペインのエラスムス主義者フワン・ロペス・デ・オーヨスの弟子で、捕虜となったり職業を転々としていた。スペイン風刺文学としても代表作の「ドン・キホーテ」は当時ベストセラーとなる。

     シェークスピア(1564 - 1616):エリザベス期の詩人/劇作家。イタリアを舞台にした劇を書いてはいるが、ラテン語やギリシャ語についてはあまり詳しくなかったという。四大悲劇とされる「ハムレット」「オセロー」「マクベス」「リア王」をはじめ、その他にも喜劇・史劇など36篇の作品が残されている。「ヴェニスの商人」では商人アントニオと高利貸シャイロックとの争いなどを描いた喜劇。



 美術に関していえば、15世紀前半に遠近法が確立し、近代絵画の基調ともいえる写実主義の基礎が出来る。
 建築の世界で生まれたルネサンス様式では、聖堂には大円蓋(ドーム)と列柱で安定感と豪快さに富んだ特徴を持ち、館には横の線を強調したものが多い。
 ローマ市内教皇庁にあるカトリックの中心地、ヴァチカン宮殿にはサン・ピエトロ大聖堂が建設され、教皇シクトゥス4世の命によって建設されたシスティナ礼拝堂はミケランジェロの壁画などの壁画だらけである。
 14世紀末からフランドル(ネーデルラント)地方を中心に活躍したファンアイク兄をはじめとする画家達の事をフランドル派と呼び、そのゴシック様式の写実性などを評するが、ゴシック(中世的)風な為にルネサンスといえるかどうかは色々と意見が分かれる様だ。しかし、ファン・エイク兄弟の確立した油彩画の技法はイタリア・ルネサンスにも大きな影響を与えているとみえる。ヤン/ハンス・ファン・エイク、ヒエロニムス・ボス、ピーテル・ブリューゲル、ルーベンスのほか、レンブラントやフェルメールをその有名人に加える事も可能。

美術

     ジョット(1266頃 - 1337):イタリア・ルネサンス初期の画家。元祖近代イタリア絵画と称される。代表作「聖フランチェスコの生涯」

     ファン・アイク兄弟(1366頃 - 1426)(1380頃 - 1441):フランドル派の画家。油絵をはじめる

     ブルネレスキ(1377 - 1446):イタリア・ルネサンスの建築家。ルネサンス建築家のはじめとされる。当時困難とされていた”サンタ・マリア大聖堂に大円蓋をつける”という事を成し、「フィレンツェの誇り」サンタ・マリア大聖堂の完成におおいに貢献する

     ロレンツォ・ギベルティ(1378 - 1455):フィレンツェの彫刻家。自由な写実をはじめる

     ドナテルロ(1386頃 - 1466):フィレンツェの彫刻家。大ドームを持ち、古代建築の要素を持ち合わせるというルネサンス様式を確立

     ボッティチェリ(1444頃 - 1510):イタリア・ルネサンス中期の画家。メディチ家の保護を受ける。代表作は女性美で有名な「ヴィーナスの誕生」、「春」など。

     ブラマンテ(1444 - 1514):盛期イタリア・ルネサンス及びルネサンスを代表する建築家。はじめは画家を志していたが、ヴァチカンに隣接する世界最大の聖堂、カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂新築の設計をする。サン・ピエトロは16世紀初頭に建設がはじめられ、レオ10世が贖宥状の販売に力を入れた理由であり、設計・建設にはブラマンテのほか、ラファエロやミケランジェロも加わっている

     レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452 - 1519):フィレンツェ郊外ヴィンチ村出身の有名人。ルネサンスの理想像「万能人」の典型ともいうべき存在で、絵画のほか、解剖学をはじめとする自然諸科学・諸技術に関しても冴えていた。フランス滞在中に没する。代表作としては、ミラノの聖マリア・デッレ・グラツィエ聖堂の壁画として遠近法を用い、描いた受難前夜の絵「最後の晩餐」や神秘的な微笑みと評判の「モナ・リザ」などなど

     ラファエロ・サンティ(1483 - 1520):イタリア・ルネサンスの代表的な画家。洗練された優雅な手法で「聖母子像」を多く描いた。また、「アテネの学堂」が有名である。

     デューラー(1471 - 1528):ドイツ・ルネサンスの画家。イタリア・ルネサンス絵画に学び、思想的な深みのある画風が特徴的で、版画を多数遺した。油彩では「四使徒」が有名である。

     ホルバイン(1497 - 1543):南ドイツうまれの画家。ドイツ/イタリアでの活躍の後、イギリスに渡り「エラスムス像」といった、エラスムスや、ヘンリ8世、トマス・モアらの肖像画を描いた事で有名である。

     ルーカス・クラナハ(1472 - 1553):ドイツ・ルネサンスの画家。ルターと親しく、宗教革命者の肖像画なども描いた。

     ミケランジェロ・ブオナローティ(1475 - 1564):主にフィレンツェとローマで活躍したイタリア・ルネサンスの代表的な画家。若い頃の大理石像「ダヴィデ」や、教皇ユリウス2世に強要され描いたシスティナ礼拝堂天井の大壁画「天地創造」、ユリウス2世の墓碑の中心彫刻として制作した大理石像「モーセ」、システィナ礼拝堂の大祭壇画である「最後の審判」などが有名。

     ピーテル・ブリューゲル(1528 - 1569):ネーデルラント、フランドルの画家。農民や自然の生き生きとした姿を写実的に描く。油絵や銅版画を多く描いた。



・科学と技術
 大航海時代とも重なるルネサンスには三大発明と呼ばれるものがある:

羅針盤 / 火薬 / 活版印刷技術

 羅針盤は、宋代に実用化され、西ヨーロッパへは、イスラム経由で伝播したと考えられている。イタリアで改良され大洋航海術の発展に大きく貢献した。
 火薬は、金/元で実用化され、西ヨーロッパへは、イスラム経由で伝播。それまでと戦法を大きく変え、騎士階級の没落を促進させた。
 活版印刷技術は製紙法の普及とともに書物の制作を迅速且つ安価なものとし、文芸世界に大きな影響を与える。活字印刷は宋で、金属活字は高麗で実用化されたものだが、その後西欧でも鉛とスズの合金活字が開発されている。
 大航海時代とも重なるルネサンスにはほかにも色々な科学に対する新たな説が現れ、技術も中国で発明され、伝わってきたものを中心に改良・実用化が非常に多く行われる。

人物

     グーテンベルク(1400頃 - 1468):ドイツの活版印刷術創始者。1450年代頃印刷技術をはじめ、「四十二行聖書」などを印刷した。その制作法で当時高級だった書物を安価克つ迅速にし、思想や知識の普及に一役買った。よって宗教改革にも多大に影響している

     コペルニクス(1473 - 1543):ポーランドの聖職者/天文学者。当時教会公認の学説であった天動説を否定する地動説をとなえ、天文学に革命的な変化を与えている。最晩年になってアリストテレスやプトレマイオス等の古代の宇宙観を否定した著作「天球回転論」の出版に同意

     ジョルダーノ・ブルーノ(1548 - 1600):イタリアの学者。古代の汎神論に強く影響を受けており、地動説及び太陽系外や地球外生命の存在を唱え、宗教裁判によって火刑に処される

     ケプラー(1571 - 1630):ドイツの天文学者。17世紀初頭に遊星(惑星)運行の法則を確認する(ケプラーの三法則)。近代天文学の基礎を築いたと評される。

     ガリレオ・ガリレイ(1564 - 1642):ピサうまれのフィレンツェ学者。パドヴァ大学教授で、天文学の父と称される。振り子の等時性、物体落下の法則を発見し、望遠鏡で証拠を確認した上で地動説を確信。名台詞「それでも地球は動く」は地動説に関して宗教裁判にかけられた際に発したとされる



技術/学説

     鉄砲(1381 - ):南ドイツで出現。”火薬の伝来のおかげ”のひとつ。実用化されたのは15世紀後半に入って後のことである

     製紙法:漢代に改良され、8世紀にイスラムへ伝わる。西欧には12世紀頃に伝わっており、羊皮紙に代わって急速に普及した

    ina  地動説(1530頃 - ):コペルニクスの確信した宇宙観。地球の自転・公転を認めるという説は、地球が宇宙の中心で不動であるとした天動説を認める教会に厳しく反対され、ニュートンの登場によって正しく認められるまで約100年かかっている



・ルネサンスの育つ環境
 フィレンツェはトスカナ平野の都市共和国。毛織物生産や東方貿易、またそれらによる商業及び金融で繁盛する。1434年から、最終的には1737年まで大富豪メディチ家に長期に渡って支配される。それ以後はナポレオン時代を除き1860年までハプスブルク・ロートリンゲン家に支配されている。イタリア・ルネサンスの中心地となった。
 メディチ家はフィレンツェに現れた大富豪。銀行家/政治家。14世紀末には金融業での蓄財でうまくいき、1434年には当主コジモ・デ・メディチ(1389 - 1464)がフィレンツェ共和国国家元首となる。
 コジモはまた、アカデミー(プラトン学園)や図書館の開設を行っている。アカデミーは研究機関であり、プラトンを中心とした古代ギリシャの研究を盛んにした。
 孫であるロレンツォ・デ・メディチ(1449 - 1492)はフィレンツェ最繁栄期にメディチ家と当主となっている。共和国においては専制君主としての権威を握り、多くの人文主義者、芸術家を愛護。イタリア・ルネサンスの繁栄を更に盛り上げた。
 ローマ教皇レオ10世やフランス王アンリ2世の妃もメディチ家出身である。
 ミラノ公は公爵家で、主にロンバルドが領土であった。中でも特にロドヴィコ・スツォルファは、レオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンや有力君主として有名であった。



国、王、政治、家

 13世紀以降は各国君主が、そのの諮問機関である身分制議会 Estatesを開くようになった。国内統一をはかる為、この議会は、貴族(諸候)/聖職者以外に新たに市民代表として都市の代表を加え、構成されていた。身分制議会の形は細かい部分で各国様々であるが、都市の代表とはギルドの親方または大商人である事が多かった。特にドイツにおいては都市は帝国都市であり、議会も帝国議会と呼ばれる。
 こうして、各国における王権の伸張や中央集権化は様々なスタイルで展開していく。
・イングランド
 元祖イングランド王となった、ノルマンディー公ウィリアム1世 Willliamの、ノルマン朝 Normanは制服王朝であった為、競う程の大領主の少ないこともあって権力集中が完成し、例外的に最初から王権は強かった。
 ノルマンディーは北フランスにノルマンディー公国を建てている訳だから(参照:西ヨーロッパへの外敵)、ウィリアム1世はノルマン・フレンチを話すほぼフランス人である。そんな訳で、フランスにおいてのノルマン朝イングランド王はフランス内での領土においてはフランス王の家臣であった。
 因みにこの征服王はイングランドにおいて初の検地帳(Domesday Book)をつくっており、家畜や財産などを細かく調査して課税の基本とした。また、ウィリアム1世自信はフランス語を使っていたそうだが、ノルマン朝の血統は続いている為に後々この言語と現地で使われていた言葉が融合し、英語が完成されたという。
 しかし、ノルマン朝イングランド王ヘンリ1世の後継者問題で、フランス南西部アンジュー地方を領していたフランス王の家臣で大貴族、アンジュー伯 Anjouのアンリがイングランド王ヘンリ2世 Henryとなって1154年からプランタジネット朝 Plantagenetをはじめる。最終的にこの王朝は1399年まで続く。
 ヘンリ2世は、フランス西半部をも領有し、大勢力を築いた。
 その子で、兄リチャード獅子心王の死により王位をついだジョン欠地王 John the Lacklandは、フランス国王フィリップ2世との戦いでの連敗で、フランスにおける領地の殆どを失い、争った相手の教皇インノケンティウス3世からは1209年に破門される。教皇インノケンティウス3世との争いは、カンタベリ大司教 Canterburyの任免権をめぐっておこっている。カンタベリ大司教は、宗教改革まで英国カトリック教会において最高の地位についていたのだ。結局1213年には謝罪とともにイギリス全土を教皇領として献上する事によって破門を解かれている。
 ヘンリ2世は、このカンタベリ大司教を暗殺させた事でも有名である。
 更に、ジョン欠地王は、財政困難の為不当な重税を課し、諸候から庶民にいたるまで恨まれた。そして1215年、結束した貴族に反抗され、大貴族・聖職者の同意を必要とした課税、法による支配を明文化した大憲章(マグナ・カルタ) Magna Cartaを認めさせられる。これがイギリス憲法のはじめとされ、立憲政治の基礎がおかれた。
 しかしその長子であるヘンリ3世は大憲章を無視し、重税を課したりした為、貴族の反抗を招いている。
 元フランス系の貴族であるレスター伯シモン・ド・モンフォール Simon de Montfort1258年に貴族を率いて反乱を起こした。そして1265年にはこの一連の戦いに勝利し、高位聖職者、大貴族に、州騎士と市民代表を加えた諮問議会を王に認めさせる。この、聖職者/貴族/州と都市の代表、で構成された議会こそがイギリス議会の起源である。また、14世紀半ばには貴族院と庶民院からなる二院制が成立している。
 そしてまた、1295年にはエドワード1世 Edward "the Longshanks""Hammer of the Scots"によって、聖職者/貴族に各州2名の騎士と各都市2名の市民、で構成される模範議会 Model Parliamentが招集されるようになり、
 その後にはその形式も、高位聖職者/大貴族で構成される上院(貴族院) House of Lordsと、州の騎士/特権都市の代表で構成される下院(庶民院) House of Commonsにわかれて行われる身分制議会となった。この議会では、法律の制定及び新課税には下院の承認が必要である。ところで騎士は下院に入っているが、イギリスでの騎士は早い時期から軍事的性格を失った為に、州を代表する地方のジェントリ(卿神)となって(参考:中世の衰退)、都市の代表の他の下院における勢力になったのであった。


・フランス
 987年ルイ5世の死とともに、西フランク王国におけるカロリング朝の血筋が断絶したフランスでは、パリ伯であったユーグ・カペー Hugues Capetによってはじめられたカペー朝 Capetが、王朝として在った(参照:フランク王国の分裂)。カペー朝では、はじめは諸候の力が強かった為に初期の王権は北フランスの一部を領有する程度の勢力しかなかった。しかし歴代の王は、アルビジョワ十字軍に成功し南フランスに王権を拡大させ、モンゴルへブルックを派遣し第6、7回十字軍も起こした聖王ルイ9世 Louisの様に、カトリックと結びつきをつくり着実に王権を拡大していったので、カペー朝は神聖ローマ帝国にも劣らぬ強国となった。
 他には、1180年即位のフィリップ2世は、イングランド王ジョンと戦い国内のイギリス領を多く奪ったし、フィリップ4世 Phillippeは教皇ボニファティウス8世と争った時、聖職者/貴族/市民代表で構成される身分制議会、三部会 Étas générauxを開催して中央集権化に努めたし、テンプル騎士団を解散させて奪った莫大な財産を、王権強化に役立てた。


・百年戦争(年表)
 突然のようだが、背景として中世後期、フランスやイギリスでは王権強化の為、王には腫れ物の治癒するなどの奇蹟を行う力があると「王の神聖化」を喧伝していた。
 フランス国王は毛織物産地として有力なフランドル地方 Flandreを、直接支配下におこうとしていたが、ここへ羊毛を輸出していたイングランドはそれを阻止しようとしていた。
 シャルル4世の死によるカペー朝の断絶に伴い、1328年、その支流ヴァロワ家からフィリップ6世が即位し、ヴァロワ朝 Valoisが成立した。ところがイギリス国王であったエドワード3世が、カペー朝フィリップ4世の娘であるその母イザベルの血統を主張し、フィリップ6世のフランス王位継承に異をとなえた。
 これが百年戦争の切っ掛けである。
 そもそも英仏では、ジョン欠地王の失策とフィリップ2世の策略によるイングランド領損失の際に唯一残ったイングランド王領、ギュイエンヌ Guyenneの内政にいちいち干渉するフランス王とそれを不満に思うイングランドとの間に生まれた確執などがあり、プランタジネット家とヴァロワ家が対立したのも今にはじまったはなしでなく(無論現在にしてみりゃ今もなにもないのだが)、百年戦争のそうした争いが積み重なってはじまったものであった。
 結局エドワード3世はフランス諸公の説得に失敗した為、翌年の1329年には王位を認める事になるのだが、今度はイングランドが攻めていたスコットランドの王を、亡命先のフランスが遭えて引き渡さず、更に両者の緊張は高まる。
 さて、およそ1339年からはじまった百年戦争は、はじめエドワード3世の長子で戦上手のエドワード黒太子 Edward the Blackの活躍などにより、イングランド軍が優勢で、フランス北西部などを奪っていた。1346年、フランス北海岸の港町カレー Calais付近で行われたクレシーの戦い Bataille de Crécyではエドワード3世およびエドワード黒太子率いるイングランド軍はクレシーを包囲/占領し、(逸話によれば)町は市民達の英雄的行為で破壊を免れたが、イングランドの長弓(ロングボウ)隊による目覚しい活躍や、自信過剰の為フランス軍は大敗。1356年ポワティエの戦い Battle of Poitiersでもエドワード黒太子率いるイングランド軍がフランス軍に大勝。更にフランス王ジャン2世は捕らえられ、捕虜となった。
 その上フランス国内でも黒死病の流行や1358年におけるジャックリーの乱などで荒廃。シャルル7世 Charlesの時には国は崩壊しかけていた。
 ジャンヌ・ダルク Jeanne d'Arcの現れたのはこういった最中だった。それは前国王シャルル6世の死によってイングランドに占領され、自国王不在の頃で、彼女は東フランスドンレミの農家の娘であったが1428年神のお告げを受けたとして翌年フランス中部の小都市であるオルレアン Orleansへ入り、オルレアンに孤立して敗北寸前となっていたシャルル6世の跡継ぎとして残されていた後のシャルル7世、王太子シャルルを鼓舞し、自ら軍を率いてイギリス軍を撃退した。
 以後フランスは勢いを盛り返し、とうとう戦争は、1453年のギュイエンヌボルドー再陥落でフランスの勝利に終わった。イングランドは再びギュイエンヌを失った。そしてシャルル7世は没落した諸候/騎士の代わりにジャック・クール Jacques Coeurなど大商人と手を組んで財勢を挽回し、戦後は復興の為常備軍の設置などを行い、中央集権化を進めた。次期王の次の王であるシャルル8世は中央集権化を達成。


・バラ戦争(年表)
 一方イングランドでは、プランタジネット朝の系統を継ぐ、ランカスター家によるランカスター朝 Lancaster1399年に成立していたのだが、1422年に即位し、一時フランス王も努めたランカスター朝イングランド王ヘンリ6世は百年戦争での敗北でその権威を完全に失っており、国内は混乱に陥っていた。そして権力はもうひとつのプランタジネット家支流であるヨーク家 Yorkの、ヨーク公リチャード(ヘンリ3世の曾孫)に移動していた。
 ランカスター家より支持を受けていて王の血を継いでいるならばヨーク公が王位継承してもいい筈であるという動きが見られていたのだ。
 よって王位継承を巡ってランカスター家とヨーク家は争う様になった。それぞれ赤バラ白バラの紋章を持つ両家の間のこの内乱は、バラ戦争 Wars of the Rosesと呼ばれる。
 イングランドにおける多くの諸候/騎士が両派に分かれて激しくたたかい、両者ともに疲労または自滅した。
 ヨーク公リチャードは、精神を病んだ意志薄弱なヘンリ6世に対し優位にたって王位をとらんとしていたところだったのだが、不覚をとり戦死。にも関わらずその翌年1461年には、その子エドワード4世がランカスター派を破って即位し、ヨーク朝は1485年まで続く。
 しかし1483年にエドワード4世が病死するとエドワードの一族は排除されその弟であるグロスター公がリチャード3世として即位。この事は国内の混乱を招き、各地に反乱を起こす原因となった。そこで、フランスに亡命していたランカスター派のヘンリ・テューダーが1485年にイングランド上陸。内乱をおさめ、リチャードを撃ち破り、エドワード4世の娘と結婚してヨーク家と和解。ヘンリ7世として即位し、同年、テューダー朝を開いた。1487年にはウエストミンスター宮殿の星の間に、星室庁裁判所 Court of Star Chamberを設立し、王権に反抗する貴族を処罰することによって絶対王権の確立、中央集権化に成功した。


・ドイチュラント
 現在のドイツに当たる地域では、神聖ローマ帝国の存在はあったにも関わらず、実際には領邦国家 Teritoriumと呼ばれる、大諸候の領地が各自に集権化をすすめていった封建的な小国家が300も存在しており、それぞれが外交権や貨幣鋳造権を有しており、国は分裂状態にあった。また、強い権力を持った大諸候の存在とそれに並ぶ自由都市の独立勢力としての力の強さによって政治的分裂/不統一は深まっていった。加えて神聖ローマ帝国歴代皇帝はイタリア政策を追求し過ぎて自国を留守にし統治をなおざりに仕勝ちであった為、その傾向をますます深めていった。
 イタリア統合に一時成功した赤髭王フリードリヒ1世 Friedrichも、フリードリヒ1世が北イタリアの都市の集結した、ロンバルディア同盟軍に敗れ、第3回十字軍の途中でに溺死してしまい、シュタウフェン朝 Staufenはフリードリヒ1世の頃最盛期を迎えていたが、結局再びイタリア政策へ力を入れる事となってしまった。その孫で、第5回十字軍に参加し一時的に成功したフリードリヒ2世に至っては、オットー4世が破門された後に神聖ローマ皇帝に即位し、父の急死によって一時途切れていたシュタウフェン朝を復活させたもののイタリア滞在が非常に長かった。フリードリヒ2世は、国内安定の為、諸候及び都市の特権を広く認めた為、結果的には領邦国家化を促進していった。
 代々のローマ教皇との争いの末、1254年にシュタウフェン朝は断絶してしまう。オランダ伯またはイギリス/フランスにとって操り易い皇帝はたてられたが、事実上は皇帝不在の神聖ローマ帝国は政治的混乱を起こし、1256年から1273年まで大空位時代 Interregnumと呼ばれる無皇帝時代が続いた。神聖ローマ皇帝の弱体化は続き、ルクセンブルク朝神聖ローマ皇帝カール4世 Karl1356年金印勅書(黄金文書) Goldene Bulleを発布。これによって神聖ローマ皇帝選挙への選出権を7人の聖俗諸候、選帝候 Kurfürstが持つ事を承認した。七大選帝候とは、マインツ/トリール/ケルンの三大司教と、ベーメン王/ブランデブルク伯/ザクセン公/ファルツ伯の四大諸候を指す。この勅書は結局皇帝や教皇に対しての領邦君主や教会の優位を確認したもので、ドイツ分裂をより進める結果となった。
 因みに、カール4世は1377年にアヴィニョン捕囚中の教皇の帰還を実現させている(参照:教皇権の衰退)。また、ベーメン王カレル1世もつとめ、東欧最古の大学であるプラハ大学の設立などチェコ文化の発展に貢献した。
 こういった状況下、神聖ローマ帝国の有力な領邦国家は自ら身分制会議を開き、独自に王政への道を切り開いていた。
 名門貴族で、スイス東北部のライン川上流域に出自を持ち、オーストリアを領するハプスプルク家 Habsburg1273年に神聖ローマ皇帝に選出される。1438年からは完全世襲化に成功し、皇帝は帝国統一に努めたが、自領経営第一主義をとり、地方の分裂と諸候の自立化を妨げられず失敗。統一はますます難しくなった。
 しかしハプスプルク家のオーストリア支配は以後1918年まで続く。
 スイスにおけるハプスブルク家においては、スイス地方の農民がその支配に対し1291年に農民/市民を中心とした独立抗争を開始。1316年には自治権を認めさせ、現在のスイス連邦の母体をつくった。また、1499年のバーゼル会議では13州の神聖ローマ帝国からの事実上の独立を果たし、1648年のウェストファリア条約ではそれが国際的に承認された。
 かつてスラヴ人やマジャール人の居住地であったエルベ川以東の地域では、12世紀から14世紀にかけ、ドイツ諸候が大規模な東方植民を行い、軍事的性格の濃い植民を推し進めた。
 そんな中、諸候国がつくられる様になったのである。例えば、ブランデンブルク辺境伯領 Brandenburgが神聖ローマ皇帝によって成立させられ、1190年に十字軍運動で創設された騎士団であるドイツ騎士団も、十字軍終了後東方植民に参加、バルト海沿岸を開拓しドイツ騎士団領 Deutscher Ordenを形成した。ドイツ騎士団領は後のプロイセン公国のもととなった。シトー派修道院 Ordo Cistereiensisもともに東方植民で活動した。
 これらの地方では、領主が農奴への身分的束縛を更に強め、直営地を広げて大農場を経営し、輸出用穀物生産を大規模に行うようになったのが特徴的といえるだろう。


・イタリア
 イタリアもまた、中世末期には多数の国/諸候/都市、にわかれていた。
 南部においては、ノルマン系のルッジェーロ2世によって1130年に建国された、(旧)両シチリア王国 Due Siciliaが、1282年にイタリア系貴族達によって首都パレルモを中心に起こされた反アンジュー家(フランス王国)の大反乱「シチリアの晩鐘」の結果、国がシチリア王国とイタリア半島南半のナポリ王国に分離。シチリア王国はアラゴン(後のスペインのもとの一部)王の所領に、ナポリ王国はアンジュー家によって建てられた。
 因みに、シチリアの晩鐘でイタリア系住民達の合い言葉であったとされる「Morte alla Francia Italia anela(フランスに死を、これはイタリアの叫びだ)」の頭文字は”マフィア(mafia)"の由来になったという説があるが、合い言葉が不自然なので実のところどうなのかはいささか怪しいものだという。
 南部と北部に挟まれた中部には、まだ広い領土を持っていた教皇領 Papal Stateがあった。
 北部においては、領主権力が弱かった為に出来たヴェネツィア共和国 Venezia/ジェノヴァ共和国 Genova/フィレンツェ共和国 Firenze/ミラノ公国 Milanoを代表する、自治都市が領域を併せ形成した都市共和国が分立して存在した。ジェノヴァは12〜13世紀頃最盛期を迎え、その後ヴェネツィアと海上権を争った時敗北し衰退、ヴェネツィアは東方貿易による繁栄で「アドリア海の女王」と讃えられ、第4回十字軍以降は東地中海の各地に植民地を持ち、イタリア・ルネサンスの中心となったフィレンツェは毛織物産業/貿易/金融業で繁栄、ミラノ公国はヴィスコンティ家に専制支配されていた。
 また、神聖ローマ帝国がイタリア政策を進め、介入してくると神聖ローマ皇帝VSローマ教皇の抗争が現れ、諸都市内で大商人の多い教皇等(ゲルフ) Guelfと貴族/領主層の多い皇帝党(ギベリン) Ghibellinesに分かれて互いに争う様になった。
 これがまた国内統一をより一層困難にした。
 南部におけるシチリア王国とナポリ王国は、アラゴン王国によってナポリが一旦併合された為に両シチリア王国の名称をもって再び合併したものが復活するが、フランスやオーストリアとの争いの為、後にまた分裂。それでも1816年になってブルボン家の下で正式に統一され、両シチリア王国として再復活する。後1860年にはサルデーニャ王国に併合された。
 教皇領は、イタリア統一の過程でどんどん縮小されていき、今日に至ってはローマ市内のヴァチカン市国のみが残っている。


・北欧
 北欧においては、スウェーデンが13世紀に、今日のフィンランド人の祖で、700年頃からバルト海北東に住むウラル・アルタイ語族系のフィン人 Finnsを征服・統合しスウェーデン・フィンランドを形成している。しかし後には王と貴族の争いの激化により、内部の弱体化が進むようになる。
 スウェーデンの様に各国にそれぞれ問題があった為に、デンマーク女王マルグレーテ Margreteの支配下で1397年、デンマーク/スウェーデン/ノルウェー三国の間にカルマル同盟 Kalmar unionが結ばれる。これによってマルグレーテが諸国王である同君連合のデンマーク連合王国 Denmarkが成立。一大勢力となった。
 カルマルとはスウェーデンの町の名である。
 しかしデンマーク支配に対するスウェーデン人の抵抗運動は絶え間なく展開され、1523年にはついに独立・脱退。連盟王国はデンマークとノルウェーのみで構成されるようになるが、ノルウェーはそれからも1814年まで留まった。



宗教改革

・教皇権の衰退
 統一的政治権力の存在しなかった西ヨーロッパ全体に及んでいた教皇の権威も、十字軍の失敗、更には各王権が成長していく、といった事で衰えていく。
 在位1294 - 1303年の教皇ボニファティウス8世 Bonifatiusは、教皇至上主義という考えを持っていた。彼は、王権拡張に余念のなかったフランス王フィリップ4世 Phillippeの企てた教会財産および聖職者への課税とう案に反対しフランス王と争った。フィリップ4世は1302年に聖職者/貴族/平民からなる三部会をノートルダム寺院へ拾集。結局教皇は、1303年アナーニ事件 Attentat d'Anagniで、逃げ込んだ先の生まれ故郷であるローマ近傍のアナーニでフィリップ4世に捕らえられる。アナーニ住民のおかげで最終的に教皇は釈放されたのだがこの事態への怒りと失望による乱心傷心でその3週間後憤死したのだ。
 因みに、永久追放を食らったダンテの「神曲」の中でのボニファティウス8世は、地獄に堕ちて真っ逆様。その上燃やされている。(参考:ルネサンス - 文芸
 フィリップ4世はその後1309年に、教皇庁をフランス南東部のアヴィニョン Avignonに強行させる。当時の教皇はクレメンス5世 Clemens。これ以後教皇はフランス王の支配下におかれるようになった。クレメンス5世は1312年、王の意によってテンプル騎士団を禁止している。
 このフランス王による教皇の支配は以後1377年まで続き、69年の間に教皇は7代にわたっている。これを古代にカルデア国王がユダ王国のユダヤ人達を捕虜としてバビロニア地方へ連行し、移住させたバビロン捕囚の事件に準え、「教皇のバビロン捕囚」と呼んだりする。
 教皇庁はローマに戻り、戻った当時の教皇が翌年に死ぬと枢機卿達はナポリタンのウルバヌス6世を教皇に選出した。しかし、ウルバヌスを教皇として選出した事は酷評され、後悔した多数派のフランス人枢機卿が、アヴィニョンにてクレメント7世を新たに教皇として擁立。ローマ、アヴィニョンニ者とも正当性を主張し、カトリック教会は2派に分裂した。この事は、昔の西方/東方教会の分裂の他の、もうひとつの教会大分裂(大シスマ) Schismaとして知られる。更には、事態収拾の為に開催された1409年のピサ教会会議で選出したアレクサンデル5世も、結局この対立したニ派の教皇を廃位させる事は成らず、教皇は3人になってしまった。1414年には神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱により、再び教会分裂解消の為コンスタンツ公(宗教)会議 Konstanzが開かれる。アレクサンデル5世の後継者であるヨハネス23世はこの会期中に逃亡した為公会議によって廃位にされ、ローマ教皇は退位に同意、アヴィニョン教皇であるベネディクトゥス13世も彼自身の納得がどうかはともかく廃位された。大シスマについてはこの会議での多数存在する教皇問題解消の後1417年に新たな教皇としてマルティヌス5世が選出され、一応収束がついた。
 しかしこの事態によって教皇及び教会の堕落、腐敗は批判されるようになり、教会の改革を目指した運動が各地で行われる様になる。これが宗教改革に直接関わっているのである。中でもオクスフォード大神学教授であったジョン・ウィクリフ John Wcliffeは聖書の尊重をとなえ、その英訳を行い、宗教改革に大きな影響を与えている(参考:・中世の衰退)。チェコにおける宗教改革の先駆者といわれるプラハ大学神学教授であったベーメンのヤン・フス Jan Hussはこのウィクリフの哲学書に強く共鳴し、教皇から野は門にもひるまず、チェック人の民族運動を指導するなどしてカトリック教会の腐敗と改革の必要性をとなえた。
 1418年まで続いたコンスタンツ公会議では他にも、この二人、ウィクリフとフスを異端者であると宣言。フスは1415年焚刑にさせられている。
 カトリック教会は異端尋問や魔女裁判などで”異端”追放に必死であった。
 他に、10世紀半ばに現れフランス南部とイタリア北部で活発となったマニ教の影響の強いカタリ派 Cathariや、その異端として南フランスのアルビ地方にて地元貴族に支持されたアルビジョワ派 Albigeoisもカトリック教会によって異端とされた。アルビジョワ派は1209 - 1229年国王のアルビジョワ十字軍によって根絶されている。
 フスの死後、ベーメンでは異端とされたフス派が教皇/神聖ローマ皇帝の圧迫に抗議を起こした。これに対し教皇・皇帝側は対フス十字軍を組織したが貴族や庶民の団結したフス派に悉く打ち破られ、失敗。これをフス戦争と呼び、1419年からおよそ1436年まで長く続いた。最終的に教皇等はフス派の中の穏健派と組んで過激派を破り、和約成立を果たしているが、この戦争はチェコに根強い影響力を保った。


・ルターから始まる宗教改革
 カトリック教会への批判は14世紀頃から既にあらわれていた。
 ドイツ中部ザクセンのヴィッテンベルク大学神学教授であったマルティン・ルターは遂に1517年、魂の救いは善行には依らず、キリストの福音を信ずる事(→福音信仰)のみに依ると確信して、贖宥状(免罪符)を攻撃したような内容の95ヶ条の論題を発表。
 メディチ家出身の教皇レオ10世はローマのサン・ピエトロ大聖堂の建設資金調達を目的とし、”教会の為に喜んで寄付をする、などの善行を積めば過去の罪も赦される”と説明して贖宥状を売り出ししていた。当時神聖ローマ帝国の分裂状態によって政治的に分裂し国家的統一の弱かったドイツは、ローマ教会による政治的干渉・財政上の搾取を受けやすかった為、ドイツは「ローマの牝牛」と蔑まれていた。
 そこでこのルターの論題はドイツ各地に伝えられると、もともと教皇庁の搾取に反発していた諸侯や市民、領主の搾取のもとにあった農民など様々な社会層から支持を受ける様になった。
 1521年ルターは教皇から破門を受ける。ついで同年、当時の神聖ローマ新皇帝(兼スペイン王)であったカール5世(カルロス1世)にドイツ諸侯を招集した初会議であるヴォルムス帝国議会への呼び出しを受け、所説の取り消しを要求される。しかしそこで自説の撤回をしなかったルターは皇帝からも弾圧をうけ、反皇帝派有力諸侯のひとりであったザクセン選帝候フリードリヒの保護のもとヴァルトブルク城内にてエラスムスのギリシア語版のものを基にして、ドイツ語版新約聖書を完成する。彼はまた同時期、修道生活を否定する論文も著述している。
 このドイツ語版新約聖書で多くの民衆が新約聖書の教えに直接接せられる様になり、その結果聖書は近代ドイツ語の確立に関わるなど、広く影響を与えた。説教師であったトマス・ミュンツァー(Thomas Münzer)はルターの福音主義を支持して農奴制・領主制の廃止などを目指したドイツ南/中部農民の反乱、ドイツ農民戦争(1524 - 1525)を指導する。
 ドイツ農民戦争について、ルター自身はじめのうちは農民達に同情的であったのだが、ミュンツァーに指導される彼等の目標が、諸侯・領主を完全に排除するという社会変革である事を知り、これを弾圧する諸侯・領主側に転じた。ルターは”地上において現存する権力と秩序を認める”という方針を持っていたのだが、ミュンツァーは次第にこれに批判的になっていっていたのだ。
 そして1525年5月、農民軍は諸侯軍と戦う事になるのだが、武器や武装の程度などの点が問題で徹底的に粉砕されるという結果となった。ミュンツァーは捕らえられて斬首。 敗北に終わった。この時南ドイツはというと、ルター派から離れた為にカトリックが主流となった。
 ザクセン選帝候をはじめルターの考えを採用した諸侯はカトリック教会の権威から離れて領邦教会制という、領邦君主である諸侯が教会の首長として領内の教会保護支配権を掌握する、という制度を確立。また修道院の廃止や教会儀式改革なども行った。
 ルター派はやがて北欧諸国にも広がる。
 イタリア支配を巡る神聖ローマ皇帝とフランス王の間で行われたイタリア戦争(1494 - 1559年)や、オスマン帝国による1529年のウィーン包囲などの国際情勢の為、カール5世はしばしばルター派との妥協にせまられる事があった。1529年に開かれたカール5世主催のシュパイエル帝国議会では、ルター派諸侯たちの立場を認めつつ、カトリック教会の立場も保全するという決定がなされたのだが、ルター派はこれに対し抗議文(protestatio)を提出。この事が由来して彼等新教徒は”プロテスタント(抗議者)”と呼ばれる様になった。その後1530年のアウクスブルクの帝国議会でも尚、カール5世はプロテスタント諸侯との和解方法を模索していた。カトリック教徒とプロテスタント教徒の争いは、1530年ルター派のドイツ諸侯/都市の結成した反皇帝同盟であるシュマカルデン同盟がトリエント公会議を契機に皇帝側と戦った、シュマカルデン戦争(1546 - 1547年)にまで達した。しかし1555年にルター派の信仰を容認した帝国議会であるアウクスブルクの宗教和議が開催され、諸侯にはカトリック派かルター派いずれかの宗教をそれぞれの支配地域で選択出来るという権利が与えられた。
 この制度では、個人の信仰の自由やカルヴァン派の信仰は認められていない。

 スイスではツヴィングリが1523年にチューリヒにて宗教改革運動を開始。1529年、ヘッセン伯フィリップの、神聖ローマ皇帝包囲網を作り上げる、というもくろみから合同のためルターと会談を行ったが教義問題から決裂、会談は物別れに終わった。ツヴィングリは後に保守派とたたかいカッペルで戦死。ツヴィングリ派の主張の一部はカルヴァン派に取り入れられる事となった。
 フランスの人文主義者ジャン・カルヴァンは、福音主義を唱えた為に当時プロテスタントへの弾圧の激しくなっていたパリで迫害され、その前後から亡命生活を余儀なくされた。1536年、スイス北部の都市バーゼルで『キリスト教綱要』(ラテン語)を公刊。『キリスト教綱要』は1559年の最終版が出るまで幾度にも渡って改訂・増補される。「予定説」はその増補のひとつ。旅行中滞在したジュネーヴの改革派に招かれ、同市の宗教改革に協力。一旦は教会勢力の拡大を恐れた市当局による追放に遭うが、1541年には再び戻り、それ以後は市政を独占し、政治・宗教の改革を独自に努めた。カルヴァンの方針の特徴とは、神の絶対主権を強調するストイックな禁欲主義であった。また神の救済にあたうる者と、滅びに至る者が予め決められているとする「予定説」を説いたというのもその特徴のひとつであろう。「予定説」はカトリックで否定されていた蓄財を、神から与えられた天職に励んだ結果としてのものとして認めた為、後の資本主義の発展に貢献したともいえよう。実際この考えは西ヨーロッパの商工業者の間にひろく普及するようになった。
 教会組織については、ルターが教皇や王侯によって任命された司教(イギリス国教会では監督)を扱う司教制度を維持したのに対し、カルヴァンはこれを廃止。長老制度という、教会員の間からとくに信仰のあついものを長老に選び牧師を補佐して教会を運営する教会制度をとりいれた。
 カルヴァン派は16世紀後半にはフランス/ネーデルランド/スコットランド/イングランド(イギリス)などにも広まり、ルター派に並ぶ強力な宗派となった。
 カルヴァン主義者はフランスではユグノー(同盟者の意)、ネーデルランドではゴイセン(乞食の意)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、イングランドではピューリタン(清教徒)と呼ばれた。
 尚「改革派」として「ツヴィングリ派」と統合される以前は確かに「カルヴァン派」は存在したそうだが、現在「カルヴァン派」を自称する教会は現在知られていない。しかし、カルヴァンは長老派教会に多大な影響を残したといえよう。
 プロテスタントという言葉は、ローマ教皇の権威を認めず聖職者の特権を否定するという主義(万人祭司主義)を持つ宗派の総称となった。

 イギリス王ヘンリ8世は、最初の王妃であったカザリンとの離婚を認めない教皇と対立。1534年、議会の指示を得て『首長法(国王至上法)』を制定・発布し、イギリスに於いては国王が教会の首長であると宣言した。
 イギリス国教会(Anglican Church)のはじまりである。
 更には修道院を廃止、その広大な土地財産を没収する。
 そしてイギリス国教会における教義面の改革はその長男エドワード6世の頃行われており、1549年にはイギリス国教会の一般祈祷書が制定され、その次の女王、熱烈なカトリック教徒で新教徒を弾圧した「血のメアリ」メアリ1世はスペイン王室と組みカトリック復活を企て、危うくイギリスがスペイン支配下におかれる危機を招く。しかしヘンリ8世の2番目の妃アン・リーブンとの子であるエリザベス1世の治世下、十年を超え再び1559年に制定された『統一法』で国教会が最終的に定着。
 イギリス国教会はほぼカルヴァン主義を採用しているのだが、政治的問題でローマ・カトリックから分裂している為、司教(主教)制を維持するなど儀礼の面でカトリック的要素が多い。


・対抗(反)宗教改革
 対抗宗教改革とは、(主に)宗教改革の進展に対抗して行われたカトリック内の自己革新運動を指す。但し、カトリック教会はそれ以前より、聖職者の堕落を指摘され、その反省の為などで、自己改革を行っていた。
 カトリック教会は教義の明確化として教皇至上権の確認をし、内部革新・粛正を通じ勢力を建て直そうとしていたのだ。
 1545年から開かれたトリエント(トレント)公会議は、当初、新旧両派の調停を目的としていたが、新教側が出席を拒否した為に旧教側のみの会議となった。その為、トリエント会議は教皇至上主義などカトリックの教義を再確認するというものになった。
 腐敗の防止をはかって、異端者を発見・処罰する宗教裁判(inquisition)の強化し、反カトリックとみなして所持・流布を禁じられた書物・その著者の項目を記した禁書目録の制定を行った。
 元スペイン貴族で軍人のイグナティウス・ロヨラを初代総長に、同じくスペイン人で宣教師のフランシスコ・ザビエル(シャヴィエル)等によって1534年に結成されたイエズス会(ジェズイット教団)は、教皇に対する絶対服従を誓い、厳格な組織と規律を持ち、海外に向けても熱心な宣教・教育活動を行った。この成果として南ヨーロッパ及び南ドイツには新教の普及が阻まれたのである。海外での布教は大航海時代の通商・植民活動と強いつながりを持つ。フランシスコ・ザビエルの1549年来日も彼等の活動の一環であった。
 イエズス会は1773年に教皇の命令で解散。しかし、まもなく再興され今日に至る。
 対宗教改革のはたらきによって新旧教徒の対立はいちだんと激化し、16世紀後半から17世紀中頃まではヨーロッパの各地で、ユグノー戦争/オランダ独立戦争/ドイツ三十年戦争などの宗教戦争が起こり、また魔女狩りの盛んに行われた地域も新旧教ともに出現した。