ヴィブラートは使うべきか否か?その3

ノリントンの説を検証する

ヴィブラートを常用するのはいつごろからなのかということを考える前に、ピリオド奏法のノン・ヴィブラートはいつごろから行われるようになったのか。その奏法の根拠はどこにあるのか。
何時頃からというのは、勉強不足のせいか、どうもハッキリとわからないんですが、たぶんアルフレッド・デラーのような古楽声楽アンサンブルの草分けによる演奏の影響をうけたイギリスのヴォーカルアンサンブルの人たち(タヴァナー・コンソートとかコンソート・オブ。ミュージックとか)が1960年代にハッキリ意識してやりだしたんじゃないか、と思われます。少年合唱やカウンターテナーの伝統が残ってるところではヴィブラートの少ない透明感のある歌唱が推奨される傾向があるためです(特に教会で)。とても効果的だったのでこれが70年代には弦楽器にも応用されていったのでしょう。
ではこの奏法の歴史的根拠のほうはどうでしょう?この奏法の強力な推進者ロジャー・ノリントン氏によると、

「1920年頃まではオーケストラはビブラートを使わなかった。世界中回って色々なオケの音源を聞いたところ、1920年以前の録音からはビブラートは聞かれなかった。ソリストは使っていた。ビブラートは装飾音の一つなんだから。でもオケで弾く時は使われなかった。」

というように録音が根拠だと言っています。またTomo Sawado氏によると

「ノリントンがノン・ビブラート奏法の根拠としてあげるのが、1938年にブルーノ・ワルターとウィーン・フィルによって録音された、マーラーの交響曲第9番の録音である。ここでは、当時ウィーン・フィルのコンサートマスターを務めていたアーノルド・ロゼーの影響もあって、全編にわたりノン・ビブラート奏法が使われている(と、ノリントンは主張する)。
アーノルド・ロゼーはマーラーとも親しく、優れた芸術家だったが、だいぶ前から汎用されるようになっていたビブラートをあまり好んでおらず、時々使うのみであった。またJames Barhamによれば、マーラー自身、ビブラートを高く評価しておらず、クリーンなバロック風の音を好んでいたという。だがDavid Hurwitzは、ニューヨークフィルでマーラーの元でヴァイオリンを弾いていたHerbert Borodkinの証言を指摘し、マーラーは「今日の指揮者よりもはるかに多くのビブラート」を要求し、歌うように要求していたという。」(http://www.fugue.us/aboutheauthor.htmlより)
ではその根拠となる録音を探ってみましょう。
まずブルーノ・ワルターとウィーン・フィルの1938年のマーラーの交響曲第9番の録音です。

walter-wien

 

確かにヴィブラートはあってもとても薄い感じ、ほとんどかけてない感じに聴こえますね。
ではノリントンがあげていない、ブルーノ・ワルターとベルリン・フィルによるウェーバーのオベロン序曲の演奏、しかも1931年の、しかも画像を見てみましょう。

 

 

チェロが全員、全部の音にヴィブラートをかけているのがはっきり見えますね!ベルリンではすでにかけていたのに、ウイーンではまだノン・ヴィブラートだったんでしょうか?指揮者同じなのに!ノリントンすでに何だか怪しくなってきました。
でもこれは31年の演奏だ!というノリントンの声が聞こえたので、もうちょっと前の演奏を聴いてみましょう。
1925年のレオポルド・ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団の演奏するサン=サーンスの”Danse Macabre”です。

stokowski

 

最初のヴァイオリン・ソロには明らかにヴィブラートがかかってますね。その後のトゥッティは…なんだかわからないです。そんなにヴィブラートがかかってないのかもしれませんが…まるで無いとも思えません。そもそもトゥッティなのでその辺明瞭にわかるもんでもないようで、しかも録音が古いので明晰さにかける。いや1925年の録音としては破格にいい音で録れてますが。大体コンマスがソロで普通にヴィブラートかけてるのにトゥッティになった途端にノン・ヴィブラートで弾くというのも不自然な気がします。
1932年録音の何とステレオ録音!によるスクリャービンの「プロメテウス」という知られざる録音を聴いてみましょう。演奏はやはり名人・ストコフスキーとフィラデルフィアです。

stokowski2

ステレオ録音の実験だったようですが、さすが演奏は素晴らしいです。そしてかなり明晰なサウンドはオーケストラのヴィブラートをハッキリ捉えていますね。第1ヴァイオリンが大きなメロディーを出す所はかなり大きなヴィブラートがかかってます。7年前までヴィブラートなしだったのが、この時にはこんなに使ってるなんて信じられますか?やっぱり録音の質のせいでヴィブラートが隠れていたっぽい気がしてきます。

次にもっとグッと古い録音、ヨーゼフ・ヨアヒムの1903年頃の録音で彼自身の作と思われる”Romanze in C”を聴いてみましょう。

joachim

15才でメンデルスゾーンと共演して、その後シューマンやブラームスから絶大な信認を得ていた巨匠の演奏が辛うじて残されています。そしてこれはノリントンをプッシュするような、ヴィブラートのあまりかからない演奏に聴こえます。4拍を超えるような長い音ではハッキリとヴィブラートを聴き取れます。しかし何分にも録音が貧弱なので、実際のところは何とも言いがたい面もあります。そして、この演奏が魅力的かどうかはまた別の問題だなあ、と考えさせられます。
謹厳派のヨアヒムだけでは偏ってる感じなので、有名なサラサーテも聴いてみましょう。

sarasate

チゴイネルワイゼンの自作自演です!1904年の録音。しっかりヴィブラートかかってますね。この曲にヴィブラートがないってのも想像しにくいですが。でも意外とヴィブラートが控えめな箇所が多いという感じもします。これも録音が録音なので実際の所は分かりにくい。

こんどは声楽を聴いてみましょう。

エンリコ・カルーソーの1902年録音、レオンカヴァッロ「衣装を付けろ」。

caruso

カルーソーは歴史上最高のテノールとも言われていますが、それは初期のレコードを盛んに吹き込んだので、世界中にその名が轟いたことに由来する、とも言われています。この歌唱では非常に自然なヴィブラートが聴かれます。装飾音としてのヴィブラートではなく、発声そのものに由来するヴィブラートのようですが、これはオペラの発声の特色と言えるものかもしれません。
こんどはネリー・メルバ、19世紀末にデビューして桁外れの成功を果たしたソプラノ、料理の神様オーギュスト・エスコフィエが「ピーチ・メルバ」「メルバ・トースト」など創作してしまうほどの大スターの歌を聴いてみましょう。

Nellie Melba 1904 Verdi La Traviata “Sempre libera”

melba

オペラのお馴染みのナンバーですが、メルバの歌は驚くほどヴィブラートがないという感じですね。ただこれも初期の録音の限界を露呈しており、実際の声とはかなり違う印象のものだったそうです。メルバは特にイギリスで人気だったそうで、これはヴィブラートの少ない教会風の歌唱を好むイギリス人の傾向と関係があると考えられているそうです。

19世紀から20世紀初頭にかけて活躍した演奏家と歌手を聴いてみると、どうもヴィブラートをかけっぱなしの演奏というのは無いようで、かなり控えめである、という印象でした。でも「無し」ではなく、随所に使用しているようだし、人によってその使用法は様々のようです。実はこれがいつの時代においても、実際のあり方だったんじゃないか。ただノリントンの、ノン・ヴィブラート奏法の根拠を録音に求めるやり方は、録音技術が貧弱だった時代に分岐点を求めるという明晰さを欠くかなり恣意的で都合のいい方法だなあ、と思います。ようするに、ヴィブラートが聴こえにくい(特にトゥッティの弦)モヤモヤした録音を指して、「ほらヴィブラートないでしょ」と言ってる感がある、ということです。そして実に、1920年代の半ばに録音技術の分岐点があったのです。(それまではアコースティック録音といって、ラッパ型の集音器に向かって直接音を出して記録していたのが、エレクトリック録音、すなわちマイクを使ってアンプで増幅して録音する方法に変わりました。)

L・アウアーはヨアヒムの弟子でヴァイオリンの大先生ですが、彼が1920年に書いた「ヴァイオリンの奏法」にあるヴィブラートに関する意見はL・モーツアルトたちの意見とまったく変わらないんです。ヴィブラートのあり方における良し悪しのセンスは時代が変わっても変わらないようです。
「震音(ヴィブラート)はポルタメントと同じやうに、始めは其効果をたかめて、歌うやうな美しい樂句乃至は単音を装飾し美化するためのものでありました。如何なる場合にでも、震音は出来得る丈け謹み深く用ひられるのが最も望ましい事を記憶して居て下さい。この方法を余りに惜しまずに用ひますと、反ってあなた方がそれを用ひる眞の目的を破壊してしまいます。私は一つの樂句の中で互に連絡を保って居る持続音の場合にでも、決してそれを濫用しないやうに忠告して居ます。」(レオポルド・アウアー「ヴァイオリンの奏法」馬場二郎訳 1920年)

ようするに「ヴィブラートは、それを使用すると美しいと思える所で使うべし」ということことに落ち着くようです。

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